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2011年10月1日

その道のプロ

曾祖父の古い白黒写真を発見した事は、少し前に書いたのですが、その写真の一枚にはおばあばも写っていました。宴会場らしき所で、70代ぐらいの曾祖父が立ってなにか面白い事を喋っているようで、その一歩下がったところに笑っている40代ぐらいのおばあばが立っています。

曾祖父は、かなり話術の達者な人だったそうで、顔剃りをしている間に、いつも必ずちょっとした話をしてお客さんを楽しませたそうです。剃刀の当たり方も、羽で顔をなでられているように軽やかで気持ちがいいので、話に引き込まれながら剃刀の感触を楽しんでいるとほどなくして「ハイ、終わったよ。」と言われるのだそうです。剃り終わった後の顔は、この上なくすべらかだったと聞きます。

写真の中のおばあばは、芸者さんっぽい刺繍の入った着物をきているのですが、あんなに華やかなおばあばを今まで見た事がありませんでした。それよりも驚いたのは、そのたたずまい方や笑い方が、自分を見せるためのものではなくて、曾祖父を引き立てるためのものだというのが見てとれるのです。
「私の連れ合いは、こんなにおもしろおかしい話をするんですよ。どうぞお楽しみ下さい。」
という声が聞こえて来そうなのです。

今まで、芸者というのがどういう仕事なのかあまりよく分からなかったのですが、その写真一枚で芸者が何なのか分かったような気がします。お客様を楽しませる、宴席のプロなんですね。そして、立ち方一つでそれを表現してしまうおばあばは、良い芸者さんだったのだろうと思いました。



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2011年9月30日

父の彼女

「忙しいから彼女ができないなんて言う男は、どっかおかしいんだって言われたよ。」
バツイチの友人が男友達から忠告を受けたのだそうです。そういえば、私にも思い当たる事があります。

父は現役のまま急死したので、葬儀の後の財務整理には、かなり慌ただしいものがありました。当面入っている予約などをキャンセルしなければいけないので、父が愛用していた手帳を開いて見ていると、短い日記のようなメモが細かい字で毎日書き込んでありました。大雑把だと思っていた父の意外な側面を見たような気がしました。

倒れた日には横浜崎陽軒でY高の同窓会に参加するはずで、その二日後にはゴルフに行く予定で… 10日の欄に「きょうことライオンキング」とありました。妹の一人が恭子という名なのですが、どうも変だと思ってたずねてみました。
「あんた、パパとライオンキング行くはずだったの?」
「ああ、それはパパの彼女だよ。何かのきっかけで知ったんだけど、ひらがなの『きょうこ』は彼女なんだよ。あと、もう一人女がいてさ、そっちの方は年に二回、お中元とお歳暮をちゃんとよこすから、商売人だと思うけど。」

父は、母が入院してからというもの、仕事をしながら病院にちょくちょく顔を出していて、しかも週末は朝の5時からゴルフに出かけるというハードスケジュールでした。一週間に一日ぐらい、何もしないで体を休める日でももうければ良かったのに、そういう事のできない人だったようです。しかもその上、彼女までいたとは!

腹が立つとか、母がかわいそうとか、そういう感情は不思議と出て来ませんでした。72才でそこまでできたとは、ただただ関心しました。

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2011年9月28日

謎の肉

戦中戦後の食べ物がない時でも、手段はどうであれ、私の曾祖父は必ず何かをどこかから見つけて来たので、一家がお腹を空かせる事はなかったと聞きます。これは、私の祖母が教えてくれたエピソードです。

ある日、曾祖父が私の祖母に、
「これから肉食うからみんなを呼んできな。」
と言って肉を醤油と砂糖の味付けで調理しだしたそうです。調理している時に、泡のようなものがブクブク出てきたのを見て、
「何、この肉?」
と祖母は聞いたそうです。曾祖父はただニヤニヤしているだけで、何も言わなかったのですが、肉を食べるのは久しぶりなので、ちょっと変だとは思ったけれど、みんな喜んで食べたそうです。

食べていると、ヤケに固いというかスジがあるような、噛むのが大変なような… 食べ終わった後で祖母が、
「ねえ、あの肉何だったのよ?」
と聞くと、曾祖父は、
「ニャ〜!」

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2011年9月27日

子供の頃、私は父が大嫌いでした。夜遅くに酔いつぶれて帰って来る事がよくあったし、酔うと寺内貫太郎一家みたいな家族全員を巻き込んだ上を下への大騒ぎになることがよくあったからです。父の関心事は家庭ではなく仕事だったために、自宅で働いていたにも関わらず、私は父の事をあまり知りませんでした。

そもそも私の両親は、お世辞にも仲の良い夫婦とは言えませんでした。性格も全く異なるし、ただ実家が床屋をしていて年令と家が近いという、便宜上の条件が合った為に結婚したようなもので、恋愛感情やお互いを思いやる気持ちなど最初から全く存在しなかったからだと思います。それでも責任感の強さからか、決して逃げ出す事なく、お互いの役割はきっちりと全うしていました。

子供も成長して次々に家から離れていき、祖母も亡くなり、歳をとるとともに父も少し丸くなり、夫婦だけの時間も増えて、溝も少し浅くなってきたかなと思った頃、母は脳卒中で倒れてしまいました。私は遠方に住む為に、すぐに駆けつけることができなかったのですが、洗濯屋のおばちゃんの話によると、救急病院での父は放心状態だったようです。

おそらく父の中には、自分が先に逝くと信じていたのに母が先に病気で倒れてしまった事への驚き、母を心身ともに虐待した事に関する罪悪感、これからやっとお互いの時間が持てると思っていたのにそれが叶わなかった事への悔しさなどがあったのだろうと思います。

それからの父は、人が変わったように母の看護を献身的に行いました。仕事が忙しい日も合間を見てタクシーを走らせ病院へ行き、そこに車を待たせたまま五分だけでも母に会った後、その車で仕事に戻っていたようです。どうしても病院に行けないような日は、親戚に電話を入れて代わりに面会に行ってもらったりと、必ず毎日誰かが会いに行くように心を配っていました。

母の意識が徐々に戻って来て、少しずつ目が覚めている時間も増え、余り言葉は話せなくても自分で食事もできるようになる間、父は母の側に付き添っていました。母もあまりはっきりとはしない意識の中で、毎日病院に顔を見せる父に信頼を寄せるようになったのだろうと思います。

残念ながら、母が倒れてから一年半程経った頃、今度は父が倒れてしまいました。仕事も遊びも看病も全く手を抜かなかったので、心と体の疲労がピークに達していたのでしょう。あっという間の出来事で、ニューヨークに住む私は臨終にも間に合いませんでした。あんなに憎んでいたのに、父の死を知った母の悲しみはかなり深いものでした。今でも母に会う度に、心の奥で父を弔っているのだというのを感じます。

それでも、私の中には何か清々しい気持ちが残りました。父は自分が好きなように精一杯生きた人だし、最後の一年半は、誰もが驚く程に母に尽くしたのです。夫婦というもの、連れ添うというのは、こういう事なのだと何十年も両親を見てきた末に思いました。

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遺伝

デブ床と呼ばれていた私の曾祖父は、クロダイ釣りの名人だったようで、逗子海岸で泳ぎながら糸を垂れて魚を釣っていたと聞きます。私が子供の頃には、簡単な釣り竿と木のエサ箱が残っていました。あんこうも、自分で釣って来たのかどうかは分からないのですが、手に入ると、家の中庭にあった木にぶる下げて解体していたそうです。悪知恵が働いて意地も悪かったと聞きますが、食べ物が手に入った時には必ず近所に住んでいる親戚も呼んで振舞うような気前のいい所もあったようです。

私の弟もかなりの釣り好きです。帰省すると、竿が何本もあり、様々な種類のおもりやウキや疑似餌などが篭に入っているのを見かけます。結構上手なようで、自分で釣って来た魚はさばいて食べています。クロダイも自宅でさばけないくらい大きいのが釣れた時には寿司屋に引き取ってもらったそうです。

何年か前に帰省したときに、弟がイカを釣って来たらしく、ちょうど家でさばいている所でした。自分の部屋からマイ包丁を持ち出し、ペーパータオルを使って綺麗に皮を剥いて、私に食べさせてくれるのかと思ったら、全て味噌漬けにして冷蔵庫に入れてしまいました。
「何よ!しばらくぶりに帰って来たからお刺身にして御馳走してくれるんだと思って待ってたら、全部味噌漬けにしちゃうの?」
「いや、こうやって味噌漬けにしておいて、イカのとれない時に焼いて食べるのが贅沢なんだよ。」
「今度釣って来たら食べさせてよ!」
「でもイカの刺身もさ、一回凍らせてからの方が美味しいんだよ。」
釣りの腕は遺伝したのかもしれませんが、気前の良さは遺伝していないようです。

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2011年9月25日

煙草

私が帰省するときには、母を老人ホームから家に迎えて一泊させてあげる事にしています。ただし、設備の整っていない狭い所で車いす生活の母の世話をするのは心配だし、かなり重労働でもあるので、私一人ではできません。必ず妹か弟に手伝ってもらう事にしています。

今年は母が泊まりに来た日が丁度お盆の期間でもあったので、お墓参りに一緒に行きました。お寺もお墓も逗子にあるので、歩いて行ける距離なのです。弟が車いすを押してくれたので、車輪が走りにくい歩道でもグングン進んで行きました。

途中でお花を買って、お線香を買って火をつけて、水をバケツに汲んで、迷路のようなお墓の通路も車いすは速いスピードで進んで行きます。お墓に着いてから簡単に敷地を掃除し、今まで上がっていたお花を下げて水を入れ替え、墓石にも水をかけ、新しいお花を上げ、お線香を祠のようになった所に入れると、弟はそこに火をつけた煙草も入れたのです。
「何で煙草お供えするのよ?パパ煙草吸わなかったじゃん?」
「実っちゃんだよ。」
「ああ、そうだったね。」
実っちゃんは、おばあばが芸者をしていた時に産んだ子供です。 赤ん坊がいては仕事にならないので、実っちゃんは産まれてすぐに里子に出されたそうです。おばあばが芸者を止めて、私の曾祖父と暮らすようになってから呼び戻されたそうですが、実の母と子とは言え、今まで殆ど面識もなかった上に、おばあばは家庭など持った事もないために、多感な年令の娘との接し方も分からず、関係はぎくしゃくしていたと聞きました。

私の曾祖父にとっても実っちゃんは他の男の子供だし、おばあばとの生活には都合の悪い存在です。実っちゃんには、年令が少し下の私の父やおば達の子守りをさせ、かなり辛く当たっていたと聞きました。実っちゃんはかなり勉強ができて成績は良かったけれど、いつしか家出を繰り返すようになったそうです。

時が経ち、私の父も成長して競技会などで頭角を現すようになり、いつまでも独身でいるのも良くないと、実っちゃんに縁談を持ちこんだのだそうです。結納を交わし、式を挙げると、次の日に実っちゃんは帰って来てしまったのです。その日から、実っちゃんは男として生活し始めました。私が子供の頃は、友人から「あの人、男?それとも女?」と何度か聞かれた事を覚えています。いつも男装で、声も低いし、男のようだけれど、やはりどこか女のようでもあったのです。

私も子供の頃には時々面倒を見てもらいましたが、特に弟は毎日のように近くの公園に連れて行って遊んでもらっていました。その事を弟は忘れていないのです。実っちゃんが肺がんにかかって入院した時にも、私は既にアメリカで生活をしていたのですが、弟は頻繁にお見舞いに行ったのだと母から聞きました。

「ハイ、じゃあナムナムしてね。」
弟が母に言うと、母は自由の利く左手を顔の前に持って来て、お参りしました。

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2011年9月24日

芸者

私が知るおばあばは、私達の住む五階建て鉄筋コンクリートのビルの裏にある借家で小唄を教えながらひっそりと住んでいました。お弟子さんに稽古を付けている時には、三味線の音や粋な歌声が私の家の三階の台所まで聞こえて来ました。細身で地味な人で、昔芸者をやっていたような華やかさは全然感じられませんでした。

おばあばが住んでいた家は、関東大震災直後に急場しのぎのために廃材を使って建てられた家だそうで、長く使い込まれて赤茶色に光った柱には、釘を抜いた後や蝶番を取った後がありました。その平屋には二世帯が入るようになっており、半分にはおばあばが住み、もう半分には夏になると逗子海岸に行く海水浴客に浮き輪やゴム草履を売る裁縫店の一家が住んでいました。

昔は逗子にも一丁目の裏あたりに花柳界があったそうです。逗子は横須賀港への便が良いために海軍関係の人々が住んでいたり、昔は金持ちの大きなお屋敷も結構あったので、宴席を張るために芸者の需要があったのでしょう。おばあばは金沢文庫辺りの出身だと聞きましたが13才で芸者になり14才で子供を産んだそうです。芸者をしながら子育てはできないので、子供は里子に出したのだそうです。

一方デブ床は、山梨の出身らしいということは聞いた事がありますが、浅草で花魁の顔剃りをする前の事は良く分かりません。浅草には明治の頃は新吉原と呼ばれていた遊郭がありました。花魁の水白粉は顔に産毛が生えているとノリが悪くなるので、顔剃りが必用だったのだそうです。

デブ床は浅草での仕事が私の高祖父に気に入られ、長女の婿にと迎えられ、二人の間に私の祖父を含めた三人の子供ができたそうです。関東大震災で妻と当時3才だった一番下の女の子が倒壊した家の下敷きになって亡くなってからは、男手一つで息子二人を育てていました。女手がなかった為に、デブ床も息子達も家事をする事となり、私の家系の「男が台所に立つ」という習慣はその頃から始まったようです。料理に関しては、また別に書きたいと思っていますが、私の父は豪快な料理をしたし、弟はシンプルだけれど繊細な料理をします。

そのうちにデブ床は、まだ芸者を始めて何年も絶っていないおばあばに惚れ込んでしまい、息子達の反対を押し切って一緒になろうと身請けをしたようです。昔、浅草で裏方として働いていた事もあって、デブ床にとっては芸者と一緒になるというのは、それほど突飛な事ではなかったのでしょう。結局入籍はしなかったのですが、店の裏手にあった家を借りて二人は住み始めました。

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2011年9月23日

高祖父と高祖母

私の先祖には全く地味なところがなく、かなりアクの強い人達が多いようです。高祖父は逗子で床屋をしており、高祖母との間に男三人、女二人の子供をもうけました。ところが高祖母は、五人の子供がいながら従業員と不義の関係になってしまい、葉山の実家に戻されてしまったのだそうです。実家が角田という名字だったのでしょう、角田のおばあさんと呼ばれていたようです。

高祖母は、洗濯屋のおばちゃんの話によると意地悪な人だったそうで、確かに残っている写真の顔を見ると意地悪そうではあります。それでもお裁縫が得意で私の祖母とはウマが合ったらしく、祖母はお裁縫を時々頼んでいたと聞いた事があります。

高祖父は浅草で花魁の顔剃りをしていた曾祖父の事を知り、その腕に惚れ込んだので長女と結婚させたそうです。一つ分からないのは、何故高祖父に息子が三人もいながら、しかも三人とも床屋をしていたというのにわざわざ長女に婿を取ったのかという事です。いくら曾祖父の腕が良く口もうまかったからといって、当時は明治か大正時代で、長男が家督を継ぐというのが当たり前だった事を考えると、息子達からかなりの反発や批判があったはずです。

私の姓も、実は高祖父の姓ではなく曾祖父の姓だと聞いています。「おじいちゃんが名前をちゃんとしなかったから…」と父のすぐ下の妹が嘆いていたのを聞いた事もあります。家の戒名を見た時にも、墓石にも高祖父の名はなく、最初の死者は関東大震災で亡くなった曾祖母と当時3才の女の子です。もしも本当に高祖父が曾祖父を婿養子にしようと考えていたならば、おそらく私の曾祖父は正式な養子縁組をしなかった為に家督を取り損なったのだろうと思います。

逗子のキングストアーの前当たりに、少し前まで床屋がありました。そこの床屋とは親戚だとは何人かの人に聞いた事があります。どういう親戚関係なのかは、誰も説明してくれなかったのですが、多分私の高祖父の息子の一人が出した店だと思います。高祖父の姓とそこの床屋の姓が同じなので、間違いないでしょう。

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