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2012年4月29日

ピザは二つに折って食べる

ニューヨークにはピザ屋が実に沢山あります。ドミノやウノやピザハットのようなチェーン店もある事はありますが、それはどちらかと言えば例外で、ピザ屋の殆どが個人営業のピザ屋です。ニューヨークでは、ピザ屋の一軒ぐらい、歩いて5分位の距離に必ずあるので、ちょっと小腹が空いた時にはとても便利です。味も店毎に違うので、誰でも贔屓のピザ屋の一つや二つは持っています。

大抵はイタリア系がやっているのですが、我が家の近所ではメキシコ系やギリシャ系がやっているピザ屋もあったりします。ニューヨークのピザは、トマトソースとモッツァレッラチーズのみのプレーンな薄い生地の巨大なピザが主流です(コストコのピザと同様のサイズ)。おそらく、ピザ屋の売り上げの60%以上はそのピザだろうと思います。

店頭では、焼き上がったパイを8等分にして、それを一切れずつ売っています。注文すると、できたての時以外は、オーブンに入れてチーズが溶けるまで暖めてくれます。ピザ一切れの値段は、一頃$2.75ぐらいにまで値上がりしていましたが、昨今の不況のせいで、最近では一切れ$1.00のピザもたまに見かけるようになりました。個人的に、ピザ一切れに$2.75は、ちょっと高いなと思います。

コストコのスプリームピザも二つに折って
どういうわけだかニューヨークでは、ピザを二つに折って食べる習慣があります。薄くて大きいので、そのまま持って食べようとすると、ペラっとピザの真ん中辺りで曲がってしまい食べにくいので、折ると持ちやすくなるのは確かです。また、二つに折ると、余分な油が折り目から滴り落ちるので、ペーパーナプキンにしつこく油を吸わせる手間も要りません。

帰省して、近所にピザ屋がないのを非常に不便だと思った時には、私もニューヨーク生活が長くなったのだと実感しました。やはり、一週間に一回ぐらいは、なんだかんだ言ってピザを食べているのです。

実家のある逗子に洒落たトラックで営業している移動ピザ屋があったので、帰省した際に大喜びで試してみました。注文してから焼いてくれて、それなりに美味しかったのですが、トマトソースとモッツァレッラチーズのプレーンなピザはなかったし、小さいし(アメリカ生活で大食いにもなってます)、¥500もしました。日本人とアメリカ人とでは、食生活が異なる事は勿論ですが、ピザに対しても求めるものが違うのだと実感しました。



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2012年1月24日

とうとう来るのか

今後4年間にマグニチュード7規模の首都直下型地震が起る可能性が70%というニュースが先日ありました。驚いて、群馬に住んでいて逗子にも度々訪れる妹にメールを送ったら、早速電話が来て「最近、鎌倉でも津波被害予想の見直しがあったみたいだし、近々来る事はみんな分かってるから、それに備えて急いでるんじゃないの?」と教えてくれました。

南関東で生まれ育った者としては、子供の頃から近々大地震が来ると言われ続け、学校でも防災訓練を繰り返し、祖母は生前に食料や燃料の備蓄を行っていたのを憶えているので、いまさら4年以内に地震が…と言われても、それがとりわけショッキングなニュースではないのは分かります。ただ、一昨年の夏に息子を逗子小学校に体験入学させた際、学校側から必ず揃えて下さいと言われた物の中に防災ずきんがあったので、近づいているんだなと内心思った事も事実です。

妹から聞いた鎌倉の津波被害予想の見直しというのが気になったので、ネットで調べてみました。どうやら、元は昨年の末に、神奈川県から沿岸市町村を対象に通達された新たな神奈川県津波浸水予測図にあるようで、地震のタイプによって、津波の被害程度も大きく異なるため、最悪の場合に備えようという事らしいのです。

特に、鎌倉の津波被害が酷くなると予想される元禄型地震では、二の鳥居まで浸水する可能性があるそうで、鎌倉ではその後津波対策を早急に進めているらしいと妹は言っていました。ネットでも非難ルートマップ等を見つける事ができました。

それでは、実家のある隣の逗子はどうなんだろうと思い、ネットで探しても古い情報しか見当たらず、逗子市のサイトでも県から通達された新たな津波予測図に関しては何も触れられていません。新たな神奈川県津波浸水予測図を見ると、元禄型地震が起った際にはJR逗子駅さえも一部浸水するようなので、気がかりになって来ました。おそらく、逗子も最悪の場合に備えた準備を進めているとは思うのですが、遠くから見ているとなんだかのんびりしているように思えます。大丈夫なんでしょうか。

日本語のウィキの南関東直下型地震のページには、「世界最大の再保険会社であるミュンヘン再保険が2002年に発表した、大規模地震が起きた場合の経済的影響度を含めた世界主要都市の自然災害の危険度ランキングでは、東京・横浜が710ポイントと1位で、167ポイントで2位のサンフランシスコと大差がつき、首都圏での震災を含めた災害リスクの高さが表れている。」とあります。

東北地震の例を見ても分かるのですが、被災地は外からの援助に大きく頼らなければなりません。もしも東京や横浜が大きく被災してしまった場合には、一体どこから援助が来るのでしょうか。9/11のテロの時に、ニューヨーク市の真新しい緊急指令センターが入ったビルは、ワールドトレードセンターの二つのタワーと共に崩壊してしまいました。最新の設備を導入し、爆弾トラックが突っ込まないようにバンカーを巡らした、ジュリアーニ市長自慢の緊急指令センターだったのですが、碌に役をしないうちに消えてしまいました。

東京首都圏の人口は、ニューヨーク市の人口とは比べ物にならない程多いはずです。首都が壊滅するような事態になっても、最低限の被災者救助/援助機能を果たせるようなシステムは、今のうちに作っておいて欲しいと思います。



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2011年11月27日

人間の躾、動物の躾

私が中学生だった頃は、教師が生徒に体罰を加えるのが珍しくありませんでした。戸塚ヨットスクールの死亡事故も起きる前だったし、体罰も躾のうちという風潮がまだまだ強かった時代です。私の通った久木中学校が特に荒れていたというわけではなかったと思います。普通の公立中学で、生徒の学力の差も大きかったし、親の経済力の差も大きかったと思うので、どちらかと言えば様々な生徒がいる層の厚い学校だったと思います。

私の家庭はと言えば、子供の教育に熱心だったわけでもないのですが、親が子供を叩いてしつけるという環境でもありませんでした。まだまだ和気あいあいとした雰囲気の残る小学校では体罰の類は普通はないので、中学に入った途端、竹刀を持ち歩き、体罰を加える体育教師を目にして、妙に大人になったような気がしたものです。

最近、友人が親戚の家を尋ねた時に、その家の子供達は体罰で言う事を聞く習慣が付いているので、友人が言葉で注意しても全然言う事を聞かないという事を言っていました。アメリカの学校では決して体罰を加える事はないので(体罰は傷害事件として扱われるため)子供達は先生の言う事も聞かないそうです。

私は犬を飼った事がないのですが、テレビを見ていた時に犬をしつけるエキスパートという人が出ていました。オプラの友人で Dog Wisperer と言われている人です。素行が悪い大型犬の躾のポイントは、犬に飼い主がボスである事を知らしめ、服従させるという所にあるそうです。犬には論理が通じないので、基本的には体罰で憶えさせます。それゆえ、飼い主の弱みや優柔不断な態度は決して犬に見せてはならないのだそうです。それが自然界に於ける動物集団の法則なのだそうです。もしも、犬が飼い主や飼い主の家族や友人に噛み付いた場合には、もう危険なので安楽死させるそうです。

様々な大型のペットに襲撃された悲惨な事件は、たびたびニュースになります。飼い主と大型ペットの主従関係は、飼い主の力が絶対的な間はうまく行っても、飼い主が老化したり病気になり、力のバランスが微妙になった時に、ペットが今までのボスを抹殺して自分がボスになろうとするようです。

人間の子供の体罰も犬の躾と似通った理論なのだろうと思います。子供は体罰を恐れて言う事を聞くだろうし、手っ取り早い事もあると思います。ただ、人間の世界は動物の世界よりもずっと複雑です。必ずしも体力的に優れたものが頂点に立つわけでもなければ、頭の良いものが頂点に立つわけでもありません。職業も細分化されている為に、様々なプロフェッショナルが存在し、それぞれの個人の興味や特色を生かした職業に就く事ができれば、社会に貢献できるし、集団のトップに立つ事はなくても、十分に満たされた一生を送る事ができます。このような複雑な社会構造は決して体罰で教える事ができません。

子育ては、自分がやってみて初めて分かったのですが、迷路のようです。明らかに才能があると思われる私の息子は、強い学習障害があるために、未だにその潜在的な能力を発揮できずにいます。息子との日々の戦いに疲れ果て、夫が苛立ちを募らせた結果、息子のお尻を叩いた事もあります。おそらく、あの時が最悪だったと思います。息子は更に反抗し、萎縮し、劣等感を募らせて行きました。

それから少しずつ、親も勉強し、学校との協力体制も整い始め、ようやく今まで失った分をこれから取り返そうとしている所です。このような方向転換が出来たのも、洞察力に優れた息子の担任と、息子の才能を決して疑う事のない夫の強い信念に依るところが大きいと思います。

子どもは個性を持って産まれて来ます。子どもの教育や躾は、それぞれの子どもに合わせて行われるべきで、枠からはみ出してしまった子どもを体罰で矯正しようというのは、子どもの個性を理解しようとせず、物事を手っ取り早く単純に片付けたい親や教育者の怠慢だと思います。自分の感情や状況を上手に言葉で表現する事のできない子どもを理解するのは至難の技ですが、それを行う価値は十分すぎる程にあります。



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2011年10月26日

逗子の八幡様

私は今まで、神社は全て八幡宮だと思っていました。というのは、逗子にあるのは亀ヶ丘八幡宮、鎌倉にあるのも鶴ケ丘八幡宮なので、実家の近所の神社が八幡宮ばかりだったからです。ところが、八幡宮というのは最初の実在の天皇であるらしい応神天皇を祀った神社で、別の神社には別の天皇や神様が祀ってあるのだという事を昨日初めて知りました。無知というのは怖いですね。

何故こんな事を書くのかというと、今年の夏は、蝉の抜け殻を収集に逗子の八幡様へ度々立ち寄ったのですが、そこに行く度に、息子がお参りしたがるのは、本殿の八幡様ではなく、片隅にあるお稲荷さんや小さな石の祠の方なのです。端っこに並んでいる祠は何なのか、あれこれ質問されて答えに困りました。亀ヶ丘八幡宮のウェブサイトを見たら、天照大神や木花咲耶姫命を祀る祠だと書いてありました。

面白い事に、応神天皇の母親はかなり威勢が強かったと思われる神功皇后だし、お稲荷さんも荼枳尼天というインドの女性神の別名を持つし、天照大神も木花咲耶姫命も女性だし、かなり女性色の強い神社です。



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2011年10月18日

仏教マンガ

私が通った幼稚園は、逗子小学校の真向かいにある延命寺というお寺の敷地内にある「逗子幼稚園」でした。名前からすると公立のような印象を受けますが、れっきとした私立の仏教幼稚園です。私の実家はそこのお寺の檀家なので、子供を通園させるのも自然な経緯だったのでしょう。

今はそびえ立つように立派な本堂が建っていますが、私が通園していた頃の本堂は、古い木造でした。たまに子供達も本堂に入って、園長先生(おそらく先々代の住職)のお話を聞く機会がありました。本堂に入る時には、礼儀正しく静かにしなければならなかったので、子供ながらに本堂が特別な場所であるという認識を持ちました。

園長先生は、おそらくありがたい話を沢山子供達にしてくれたのだろうと思いますが、残念ながら全く憶えていません。ただ、今でも記憶にあるのは、花祭りの行事と幼稚園から配布された仏教マンガです。

花祭りは、4月8日に行われるお釈迦様の誕生日を祝う行事なのですが、金属製の右手を上げた小さなお釈迦様の像の上から、園児たちが順番に一人一人柄杓で甘茶をかけるのです。多分、仏教マンガもそういうお祭りや節目の時に配布されたのだろうと思います。

マンガには、お釈迦様の誕生、出家、悟り、死について、幼稚園児でも分かるように絵と登場人物のセリフで説明がしてありました。違う内容のマンガが全部で3冊ぐらいあったと思いますが、私の妹二人も同じ幼稚園に通っていた為に、同じ仏教マンガが3部づつ家にあった事になります。それだけたくさん家にあると、嫌でも目にするし、手持ち無沙汰な時に読み返していたと思います。何度も読み返したせいか、今でもその内容を憶えています。幼少の頃の教育というのは、恐ろしいものです。

お釈迦様の母君(王妃)のマーヤ様がある日、夢の中で白い像が胎内に入る夢を見て驚き、そのすぐ後に懐妊を知り、ルピーの花園でお釈迦様が脇の下から産まれたという逸話や、どこかの森の地面に「天上天下唯我独尊」と書いてあるのを鹿、リス、鳥などの動物達が見つけ、鹿が「なんだかわからないけれど、ありがたい気持ちがしてきたよ。」と言って涙を流している、というような内容です。

小学生の頃に、そのマンガを読み返して、強烈なプロパガンダに驚愕した記憶があるので、しばらくは家にあったのでしょう。今になっては、すでに捨ててしまってあると思いますが、取っておけば良かったと後悔するような逸品でした。もう一度機会があれば、手に取ってみたいものです。



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2011年10月10日

スタテン・アイランドのグリーンベルト

最近、連休続きでお子様接待のネタにも手詰まりを感じていました。子供も今まで何度も行った所は飽きてしまっているのです。仕方がないので、目新しい所を求めてネットを調べた所、スタテン・アイランドにグリーンベルトというかなり広い地域があり、そこには幾つものハイキングコースがあるというので、行って来ました。

スタテン・アイランドには知り合いもいないし、何があるのかも知らないので、今まで車で通り過ぎた以外は、行った事がありませんでした。でも、今日は夫が何やらのテストが10月末にあるというので家で勉強をしているため、なるべく長く子供を連れ出すのがポイントだったので、クイーンズから遠く離れたスタテン・アイランドは好都合でした。

逗子の鷹取山ハイキングで、大興奮していた息子なので、これも大ヒットに違いない!と思ったのですが、そうではありませんでした。鎖場や大きな石の間をくぐり抜けるような夢とロマンと冒険を感じるようなハイキングが息子の所望のようです。

とうとう、息子が帰りたいと言い出したので、仕方がなく引き返しました。私も息子も長ズボンを履いて行かなかったので、足をボコボコに蚊にさされ、歩きながらもボリボリ掻いている有様でした。

グリーンベルト自体は、ニューヨーク市にあるとは思えないような素晴らしい自然保護地域なのですが、平坦で回りの景色がずっと同じようなコースを今回は辿ったので、息子にはつまらなかったようです。もっと、別のコースを行けば、廃墟を通ったり、湖畔を通ったり、海岸にも出るようなので、楽しかったかもしれませんが、それはもう少し研究して次回のお楽しみとします。



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2011年10月8日

日本とアメリカの教育

アメリカの新学期は9月です。息子も3年生になって1ヶ月程経ちました。幸い新しいクラスに馴染み、友達もできたようで、親としては胸をなで下ろしています。

アメリカの公立小学校の1クラスの生徒数は、地方自治体と学年によって大きく異なり、場所によっては14人ぐらいの素晴らしい所もある一方、ニューヨーク市みたいに30人程もいる所もあります。固定資産税が高い裕福な地域は、教育に充てられる税金も多く、1クラスの生徒数が少ない傾向にあるようです。

息子が小学校1年生の夏に、逗子小学校へ2週間の体験入学をさせてもらうことができました。私が通った頃とは全く違う、最新式の見違えるような学校でした。子供の日本語が心配だった私は、一日だけ授業の内容を見学させてもらいました。その時の1クラスの生徒数が約40人程でした。私が子供の頃も同じような生徒数だったと思いますが、40人の6歳児を先生が一人で指導するのは、並大抵の事ではないと思います。それでも特別にクラスの規律を乱すような子供も見当たらず、先生も上手にクラスを指導していたので、とても感心しました。アメリカ人の1年生を集めて40人クラスにしたら、完璧な地獄状態になる事は間違いありません。

息子の入ったクラスの担任をしていた先生は、かなりのベテランで生徒との信頼関係も確立されていたようで、クラス運営のツボみたいなものを心得ていたように思います。でも、それと同時に勉強の指導が必用な子供達が殆どいないというのも40人クラスが成立しうる理由なのだろうと思いました。おそらく日本では、沢山の子供達が塾へ通っているからでしょう。私も塾へ通った子供の一人なのですが、塾へ通っていると学校で初めて習う事は殆どなく、全てが簡単にできる復習でした。

アメリカには、塾というようなものが存在しません。個人で勉強を教える家庭教師のようなチューターというのはあるし、公文に通っている子供もたまにいますが、基本的に勉強は学校でするもの、毎日の宿題は親が責任を持って見てやるものと相場が決まっています。両親が働いている場合でも、親は仕事から帰った後に子供のやった宿題に毎日目を通して、間違っている所があれば、やり直させたりします。もしも悪い学区に住んでいる場合には、子供を私立の学校に入れたり、ニューヨークだと子供の学校の為に引っ越しまでする家庭も珍しくありません。子供の成績に関しては、学校と親の責任がかなり重いのです。

ついこの前、日本が教育に使っている税金の割合が先進国の中でもかなり低いというニュースがあり、私は驚きました。日本人の教育レベルがそれでも高いのは、親が子供の教育に対して高額な投資をしているからなのでしょう。つまり日本の政府は、子供にかけるべき教育の費用を一般家庭に丸投げしているのです。アメリカの教育問題は、既によく知られている所だと思いますが、日本の教育問題もかなり深刻なようです。



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2011年10月1日

その道のプロ

曾祖父の古い白黒写真を発見した事は、少し前に書いたのですが、その写真の一枚にはおばあばも写っていました。宴会場らしき所で、70代ぐらいの曾祖父が立ってなにか面白い事を喋っているようで、その一歩下がったところに笑っている40代ぐらいのおばあばが立っています。

曾祖父は、かなり話術の達者な人だったそうで、顔剃りをしている間に、いつも必ずちょっとした話をしてお客さんを楽しませたそうです。剃刀の当たり方も、羽で顔をなでられているように軽やかで気持ちがいいので、話に引き込まれながら剃刀の感触を楽しんでいるとほどなくして「ハイ、終わったよ。」と言われるのだそうです。剃り終わった後の顔は、この上なくすべらかだったと聞きます。

写真の中のおばあばは、芸者さんっぽい刺繍の入った着物をきているのですが、あんなに華やかなおばあばを今まで見た事がありませんでした。それよりも驚いたのは、そのたたずまい方や笑い方が、自分を見せるためのものではなくて、曾祖父を引き立てるためのものだというのが見てとれるのです。
「私の連れ合いは、こんなにおもしろおかしい話をするんですよ。どうぞお楽しみ下さい。」
という声が聞こえて来そうなのです。

今まで、芸者というのがどういう仕事なのかあまりよく分からなかったのですが、その写真一枚で芸者が何なのか分かったような気がします。お客様を楽しませる、宴席のプロなんですね。そして、立ち方一つでそれを表現してしまうおばあばは、良い芸者さんだったのだろうと思いました。



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2011年9月28日

謎の肉

戦中戦後の食べ物がない時でも、手段はどうであれ、私の曾祖父は必ず何かをどこかから見つけて来たので、一家がお腹を空かせる事はなかったと聞きます。これは、私の祖母が教えてくれたエピソードです。

ある日、曾祖父が私の祖母に、
「これから肉食うからみんなを呼んできな。」
と言って肉を醤油と砂糖の味付けで調理しだしたそうです。調理している時に、泡のようなものがブクブク出てきたのを見て、
「何、この肉?」
と祖母は聞いたそうです。曾祖父はただニヤニヤしているだけで、何も言わなかったのですが、肉を食べるのは久しぶりなので、ちょっと変だとは思ったけれど、みんな喜んで食べたそうです。

食べていると、ヤケに固いというかスジがあるような、噛むのが大変なような… 食べ終わった後で祖母が、
「ねえ、あの肉何だったのよ?」
と聞くと、曾祖父は、
「ニャ〜!」

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2011年9月27日

子供の頃、私は父が大嫌いでした。夜遅くに酔いつぶれて帰って来る事がよくあったし、酔うと寺内貫太郎一家みたいな家族全員を巻き込んだ上を下への大騒ぎになることがよくあったからです。父の関心事は家庭ではなく仕事だったために、自宅で働いていたにも関わらず、私は父の事をあまり知りませんでした。

そもそも私の両親は、お世辞にも仲の良い夫婦とは言えませんでした。性格も全く異なるし、ただ実家が床屋をしていて年令と家が近いという、便宜上の条件が合った為に結婚したようなもので、恋愛感情やお互いを思いやる気持ちなど最初から全く存在しなかったからだと思います。それでも責任感の強さからか、決して逃げ出す事なく、お互いの役割はきっちりと全うしていました。

子供も成長して次々に家から離れていき、祖母も亡くなり、歳をとるとともに父も少し丸くなり、夫婦だけの時間も増えて、溝も少し浅くなってきたかなと思った頃、母は脳卒中で倒れてしまいました。私は遠方に住む為に、すぐに駆けつけることができなかったのですが、洗濯屋のおばちゃんの話によると、救急病院での父は放心状態だったようです。

おそらく父の中には、自分が先に逝くと信じていたのに母が先に病気で倒れてしまった事への驚き、母を心身ともに虐待した事に関する罪悪感、これからやっとお互いの時間が持てると思っていたのにそれが叶わなかった事への悔しさなどがあったのだろうと思います。

それからの父は、人が変わったように母の看護を献身的に行いました。仕事が忙しい日も合間を見てタクシーを走らせ病院へ行き、そこに車を待たせたまま五分だけでも母に会った後、その車で仕事に戻っていたようです。どうしても病院に行けないような日は、親戚に電話を入れて代わりに面会に行ってもらったりと、必ず毎日誰かが会いに行くように心を配っていました。

母の意識が徐々に戻って来て、少しずつ目が覚めている時間も増え、余り言葉は話せなくても自分で食事もできるようになる間、父は母の側に付き添っていました。母もあまりはっきりとはしない意識の中で、毎日病院に顔を見せる父に信頼を寄せるようになったのだろうと思います。

残念ながら、母が倒れてから一年半程経った頃、今度は父が倒れてしまいました。仕事も遊びも看病も全く手を抜かなかったので、心と体の疲労がピークに達していたのでしょう。あっという間の出来事で、ニューヨークに住む私は臨終にも間に合いませんでした。あんなに憎んでいたのに、父の死を知った母の悲しみはかなり深いものでした。今でも母に会う度に、心の奥で父を弔っているのだというのを感じます。

それでも、私の中には何か清々しい気持ちが残りました。父は自分が好きなように精一杯生きた人だし、最後の一年半は、誰もが驚く程に母に尽くしたのです。夫婦というもの、連れ添うというのは、こういう事なのだと何十年も両親を見てきた末に思いました。

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2011年9月25日

煙草

私が帰省するときには、母を老人ホームから家に迎えて一泊させてあげる事にしています。ただし、設備の整っていない狭い所で車いす生活の母の世話をするのは心配だし、かなり重労働でもあるので、私一人ではできません。必ず妹か弟に手伝ってもらう事にしています。

今年は母が泊まりに来た日が丁度お盆の期間でもあったので、お墓参りに一緒に行きました。お寺もお墓も逗子にあるので、歩いて行ける距離なのです。弟が車いすを押してくれたので、車輪が走りにくい歩道でもグングン進んで行きました。

途中でお花を買って、お線香を買って火をつけて、水をバケツに汲んで、迷路のようなお墓の通路も車いすは速いスピードで進んで行きます。お墓に着いてから簡単に敷地を掃除し、今まで上がっていたお花を下げて水を入れ替え、墓石にも水をかけ、新しいお花を上げ、お線香を祠のようになった所に入れると、弟はそこに火をつけた煙草も入れたのです。
「何で煙草お供えするのよ?パパ煙草吸わなかったじゃん?」
「実っちゃんだよ。」
「ああ、そうだったね。」
実っちゃんは、おばあばが芸者をしていた時に産んだ子供です。 赤ん坊がいては仕事にならないので、実っちゃんは産まれてすぐに里子に出されたそうです。おばあばが芸者を止めて、私の曾祖父と暮らすようになってから呼び戻されたそうですが、実の母と子とは言え、今まで殆ど面識もなかった上に、おばあばは家庭など持った事もないために、多感な年令の娘との接し方も分からず、関係はぎくしゃくしていたと聞きました。

私の曾祖父にとっても実っちゃんは他の男の子供だし、おばあばとの生活には都合の悪い存在です。実っちゃんには、年令が少し下の私の父やおば達の子守りをさせ、かなり辛く当たっていたと聞きました。実っちゃんはかなり勉強ができて成績は良かったけれど、いつしか家出を繰り返すようになったそうです。

時が経ち、私の父も成長して競技会などで頭角を現すようになり、いつまでも独身でいるのも良くないと、実っちゃんに縁談を持ちこんだのだそうです。結納を交わし、式を挙げると、次の日に実っちゃんは帰って来てしまったのです。その日から、実っちゃんは男として生活し始めました。私が子供の頃は、友人から「あの人、男?それとも女?」と何度か聞かれた事を覚えています。いつも男装で、声も低いし、男のようだけれど、やはりどこか女のようでもあったのです。

私も子供の頃には時々面倒を見てもらいましたが、特に弟は毎日のように近くの公園に連れて行って遊んでもらっていました。その事を弟は忘れていないのです。実っちゃんが肺がんにかかって入院した時にも、私は既にアメリカで生活をしていたのですが、弟は頻繁にお見舞いに行ったのだと母から聞きました。

「ハイ、じゃあナムナムしてね。」
弟が母に言うと、母は自由の利く左手を顔の前に持って来て、お参りしました。

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2011年9月24日

芸者

私が知るおばあばは、私達の住む五階建て鉄筋コンクリートのビルの裏にある借家で小唄を教えながらひっそりと住んでいました。お弟子さんに稽古を付けている時には、三味線の音や粋な歌声が私の家の三階の台所まで聞こえて来ました。細身で地味な人で、昔芸者をやっていたような華やかさは全然感じられませんでした。

おばあばが住んでいた家は、関東大震災直後に急場しのぎのために廃材を使って建てられた家だそうで、長く使い込まれて赤茶色に光った柱には、釘を抜いた後や蝶番を取った後がありました。その平屋には二世帯が入るようになっており、半分にはおばあばが住み、もう半分には夏になると逗子海岸に行く海水浴客に浮き輪やゴム草履を売る裁縫店の一家が住んでいました。

昔は逗子にも一丁目の裏あたりに花柳界があったそうです。逗子は横須賀港への便が良いために海軍関係の人々が住んでいたり、昔は金持ちの大きなお屋敷も結構あったので、宴席を張るために芸者の需要があったのでしょう。おばあばは金沢文庫辺りの出身だと聞きましたが13才で芸者になり14才で子供を産んだそうです。芸者をしながら子育てはできないので、子供は里子に出したのだそうです。

一方デブ床は、山梨の出身らしいということは聞いた事がありますが、浅草で花魁の顔剃りをする前の事は良く分かりません。浅草には明治の頃は新吉原と呼ばれていた遊郭がありました。花魁の水白粉は顔に産毛が生えているとノリが悪くなるので、顔剃りが必用だったのだそうです。

デブ床は浅草での仕事が私の高祖父に気に入られ、長女の婿にと迎えられ、二人の間に私の祖父を含めた三人の子供ができたそうです。関東大震災で妻と当時3才だった一番下の女の子が倒壊した家の下敷きになって亡くなってからは、男手一つで息子二人を育てていました。女手がなかった為に、デブ床も息子達も家事をする事となり、私の家系の「男が台所に立つ」という習慣はその頃から始まったようです。料理に関しては、また別に書きたいと思っていますが、私の父は豪快な料理をしたし、弟はシンプルだけれど繊細な料理をします。

そのうちにデブ床は、まだ芸者を始めて何年も絶っていないおばあばに惚れ込んでしまい、息子達の反対を押し切って一緒になろうと身請けをしたようです。昔、浅草で裏方として働いていた事もあって、デブ床にとっては芸者と一緒になるというのは、それほど突飛な事ではなかったのでしょう。結局入籍はしなかったのですが、店の裏手にあった家を借りて二人は住み始めました。

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2011年9月23日

高祖父と高祖母

私の先祖には全く地味なところがなく、かなりアクの強い人達が多いようです。高祖父は逗子で床屋をしており、高祖母との間に男三人、女二人の子供をもうけました。ところが高祖母は、五人の子供がいながら従業員と不義の関係になってしまい、葉山の実家に戻されてしまったのだそうです。実家が角田という名字だったのでしょう、角田のおばあさんと呼ばれていたようです。

高祖母は、洗濯屋のおばちゃんの話によると意地悪な人だったそうで、確かに残っている写真の顔を見ると意地悪そうではあります。それでもお裁縫が得意で私の祖母とはウマが合ったらしく、祖母はお裁縫を時々頼んでいたと聞いた事があります。

高祖父は浅草で花魁の顔剃りをしていた曾祖父の事を知り、その腕に惚れ込んだので長女と結婚させたそうです。一つ分からないのは、何故高祖父に息子が三人もいながら、しかも三人とも床屋をしていたというのにわざわざ長女に婿を取ったのかという事です。いくら曾祖父の腕が良く口もうまかったからといって、当時は明治か大正時代で、長男が家督を継ぐというのが当たり前だった事を考えると、息子達からかなりの反発や批判があったはずです。

私の姓も、実は高祖父の姓ではなく曾祖父の姓だと聞いています。「おじいちゃんが名前をちゃんとしなかったから…」と父のすぐ下の妹が嘆いていたのを聞いた事もあります。家の戒名を見た時にも、墓石にも高祖父の名はなく、最初の死者は関東大震災で亡くなった曾祖母と当時3才の女の子です。もしも本当に高祖父が曾祖父を婿養子にしようと考えていたならば、おそらく私の曾祖父は正式な養子縁組をしなかった為に家督を取り損なったのだろうと思います。

逗子のキングストアーの前当たりに、少し前まで床屋がありました。そこの床屋とは親戚だとは何人かの人に聞いた事があります。どういう親戚関係なのかは、誰も説明してくれなかったのですが、多分私の高祖父の息子の一人が出した店だと思います。高祖父の姓とそこの床屋の姓が同じなので、間違いないでしょう。

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2011年9月22日

両親のやっていた床屋と美容院は逗子の商店街の中にありました。現在のビルは、昭和40年代中頃に建てられたものです。父は仕事にとりわけ情熱を注いでおり、従業員を同居させて仕事を教える徒弟制度を導入していました。多くの従業員は初めはインターンとして、主に秋田県から中学や高校を卒業して間もなくやって来るのです。国家試験に受かると正式に理容師としての免許がもらえるのですが、大抵は父の元で数年間働いて仕事を学びながら資金を貯めた後、独立して自分の店を出していました。

一階が床屋、二階の半分は母がやっていた美容院、もう半分は台所兼食堂兼通路でした。私達家族も従業員も皆そこで交代で食事をしたのですが、家族だけで7人、最盛期には従業員も混ぜると13人から15人もおり、食事をしている後ろをいつも誰かが通り過ぎているようなせわしないものでした。

店が忙しい日には、私も食材を買いに行ったり15人分の食事の用意をしました。やりたかったわけではないのですが、作る人がいなければ誰も何も食べられないので、仕方なかったのです。いつ頃から料理を始めたのかは記憶にありませんが、中学生位の時には、普通にある物で何でも調理できたと思います。ただ、お菓子などを作るような生活の余裕がなかったので、今でもお菓子作りは苦手です。

三階と四階には部屋が5つあり、家族7人と従業員が6〜8人が住んでいました。プライバシーなどなく、いつも誰かが急いで階段を上り下りする音が聞こえ、電話がかかってくれば5台程ある子機が一斉に鳴るのでトンネルのように細長い鉄筋コンクリートの建物に大きく響き渡りました。

昭和50年代中頃に、過密な居住スペースを改善する為に、父は店からほど近い当時相高ストアーだった建物の上の共同住宅を購入し、そこに祖母と私と二番目の妹が移りました。今はもう誰も住んではいないのですが、私達が帰省する時に使用する宿泊場所になっています。

父が亡くなった後の店は元の従業員に貸し出してあります。今は店舗の上には弟と店を貸し出している元の従業員が二人住んでいるのみです。三階に上がるとあれだけ騒がしかったのが嘘のようにひっそりとしていおり、いつも人で溢れていた台所の電気も消えています。父が亡くなったとともに、家も役目を終えたのです。

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2011年9月20日

デブ床

「デブ床」は私の曾祖父で、私が一歳になるぐらいまで生きていました。その名の通り、デブの床屋というあだ名です。かなりアクの強い人だったようで、私が小学生の頃は曾祖父を知る人もまだ多く、友人宅に遊びに行ったりした際にデブ床の孫と言われるのがたまらなく嫌でした。これを言われる度に、卑しい下層階級の烙印を押されたような気がしたのです。実際には私はひ孫なのですが。

曾祖父は、最後の8年間は自宅で寝たきりでした。赤ん坊の私が曾祖父の出っ張ったお腹の上に這い上がってしまったので慌てて大人に取り除かれたのが、曾祖父に関する唯一の私の記憶です。

今年の夏に帰省した時に、いつものように古いアルバムを開いて見ていると、今までは気づかなかった曾祖父の写真を見つけました。宴席で撮られたらしい小さい白黒の写真で、顔を覆い着物をはだけて露出させたお腹には、マジックで顔が書いてあるのです。曾祖父は腹踊りが得意だったと聞いた事がありますが、写真は初めて見ました。

次に帰省するときには、小型のスキャナーをアメリカから持って行くか日本で購入して、実家にある写真をスキャンしたいと思っています。

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2011年9月19日

駄菓子屋

逗子小学校のすぐ側に、老夫婦がやっている駄菓子屋はありました。昭和30年代には逗子にも駄菓子屋が何件かあったのかもしれませんが、私が子供の頃にはそこしかありませんでした。ボロボロのトタン屋根のあばらやの奥が老夫婦の生活スペース、店は土間にもうけられていました。

お小遣いがあるとそこへ行って、あんこだま、麩菓子、カレーせんべい、ニッキ、飴くじ、酸イカ、ソースせんべい、ミルクせんべい、梅ジャム、すもも、あんず水等々の駄菓子を買っては、市民体育館前の広場で食べたのを憶えています。50円もあれば結構楽しめたので、子供達には絶大な人気を誇っていました。

時々大人が付き添って来て、100円をおばあさんに渡すと「何でも好きなの取って良いよ。」と言われるのですが、それだとあまり面白くないのです。少ないお小遣いの中からどの駄菓子を買おうか考えてやりくりするのが自由を感じて楽しかったのです。

小学校を卒業し、別の方角にある中学校に通うようになって、駄菓子屋の前を通る事も駄菓子屋に行こうと思う事もなくなり、気がついたらそのあばらやは既に無くなっていました。

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2011年9月18日

田越川

田越川は逗子中をくねくねと曲がって流れ、途中にある幾つもの橋をくぐり、逗子海岸に注ぎます。清水橋も田越川にかかる橋の一つで、逗子小学校までの通学路の一端です。

清水橋近辺の田越川の川底は、今では綺麗にさらってあり、土手も補強され、川縁の歩道には人が川に落ちないように鉄製の頑丈な手すりがもうけてあります。でも昭和40年代にはコンクリートか石積みの土手はあったものの手すりはなく、その下の盛り上がった川岸には様々な植物がうっそうと自生していました。

川岸には子供でも簡単に下りる事ができたので、学校の帰りに友達と下りて遊んだのを憶えています。秋になると、すすき、数珠玉、彼岸花などが見られました。一度、草の茎に付いた薄茶色の泡のような物を見つけたので家に持ってかえったら、カマキリの卵だから捨ててこいと言われたのも、今では遠い想い出です。

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2011年9月15日

ニューヨークと逗子

ニューヨークに戻ってきてから初めてビジネスミーティングに顔を出しました。私が所属していたグループは、7月の末に解散してしまったため、新しく所属できるグループを現在捜索中です。

朝早く地下鉄に乗り他の通勤客とともにマンハッタンに出ると、期待と興奮に満ちたような一種独特の何とも言えない空気が流れているのに気がつきました。毎日暮らしていると人ごみや騒音がただ煩わしいだけなのに、しばらく見ないと別の角度から見る事ができるのでしょう。

今回日本に滞在していた時に出版関係の人と会う機会があり、その方がニューヨークに関して面白い表現をしていました。
「仕事でニューヨークに行ってそのエネルギーに触発されて帰ってくると、なんで日本人はノロノロしているんだろうと思ってイライラする。でもそれがカリフォルニアに行って、リラックスした雰囲気に浸って帰ってくると、なんで日本人はこんなにせかせかして働いているんだろうと思う。」

日本にいた頃、私の生まれ育った逗子近辺には、魔物が住んでいるのではないかと思うことがありました。魔物は人の心をつかみ、ゆっくりとした時間の流れに心地よく身を任せさせ、気がつくと10年経っているのです。鎌倉に出て江の電に乗ったりすれば、外の世界と遮断されたようなけだるい空気に恐ろしささえ感じます。

なんだかホテルカリフォルニアみたいですが、そういう意味では、逗子周辺は、ニューヨークよりもカリフォルニアにずっと近いのでしょう。ニューヨークに居着く日本人には関西出身者が多く、湘南出身者は殆どいないのも偶然ではありません。

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2011年9月11日

本牧から池子へ

本牧の米軍住宅地が閉鎖され日本に返還される少し前に池子の米軍住宅地は設立されました。何故それまで使用していた本牧を閉鎖して、わざわざ反対運動の激しい逗子に住宅を移したのか、本当の所は知りません。

でも頭に浮かぶのは、本牧が返還される事に伴って生まれた地域の商業効果です。広大な土地の売却、商業地域の建設、そして雇用、横浜市には多額の資金が流れ込んだのだろうと思います。横浜市にも池子の接収地の一部はかかっているわけだから、逗子は横浜にまんまとしてやられたような気がします。

新しく持ち上がっている追加の住宅建設案にも、横浜市は早々に合意して土地の一部返還の約束まで米軍から引き出していると知って、そんな事が頭に浮かびました。やっぱり逗子の人はのんびりしているからでしょうか。

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池子

鷹取山の登山口と老人ホームに行く途中、京急逗子線の線路沿いに歩くと、左側にうっそうと茂る森が広がっています。ここは、私が高校時代に毎日歩いた道でもありました。

以前は池子の弾薬庫と呼ばれ、今では池子の森と呼ばれているようです。周囲をフェンスで囲まれたその一帯は、戦前から市民の立ち入りが一切禁止されているために、様々な想像をかき立てて来ました。私が子供の頃の70年代には、接収地に入った人が米兵に射殺されたという都市伝説さえありました。

80年代に持ち上がったアメリカ海軍第七艦隊の住居施設の建設に当たっては、逗子市長の辞任や議会のリコールを繰り返してきたので、そのニュースが記憶に残っている人もいると思います。今では神武寺駅のホームから米軍の住居区域の様子を少し垣間見ることが出来るので、気になって調べてみた所、更なる住居建設の計画が進行中だと知って何とも言えない絶望的な気持ちに見舞われました。

290ヘクタールというと広大な面積のように聞こえますが、実際はセントラルパークよりも狭いのです。現在では敷地の一部が住居施設として使われているため、残されているのは210ヘクタールです。セントラルパークが341ヘクタールなので、いかに残された地域が僅かで危ういかが分かります。

私にとっては、逗子の入り組んだ狭い道沿いに建設される巨大なライオンズマンションも、山あいに建設される新興住宅地も、池子の米軍住宅も同じレベルの問題です。自然に囲まれた土地に住みたいという気持ちは理解できますが、どこかで歯止めをかけないと、過剰な土地開発の行く末は、なんの魅力もないベッドタウンなのでしょう。

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