2011年9月24日

芸者

私が知るおばあばは、私達の住む五階建て鉄筋コンクリートのビルの裏にある借家で小唄を教えながらひっそりと住んでいました。お弟子さんに稽古を付けている時には、三味線の音や粋な歌声が私の家の三階の台所まで聞こえて来ました。細身で地味な人で、昔芸者をやっていたような華やかさは全然感じられませんでした。

おばあばが住んでいた家は、関東大震災直後に急場しのぎのために廃材を使って建てられた家だそうで、長く使い込まれて赤茶色に光った柱には、釘を抜いた後や蝶番を取った後がありました。その平屋には二世帯が入るようになっており、半分にはおばあばが住み、もう半分には夏になると逗子海岸に行く海水浴客に浮き輪やゴム草履を売る裁縫店の一家が住んでいました。

昔は逗子にも一丁目の裏あたりに花柳界があったそうです。逗子は横須賀港への便が良いために海軍関係の人々が住んでいたり、昔は金持ちの大きなお屋敷も結構あったので、宴席を張るために芸者の需要があったのでしょう。おばあばは金沢文庫辺りの出身だと聞きましたが13才で芸者になり14才で子供を産んだそうです。芸者をしながら子育てはできないので、子供は里子に出したのだそうです。

一方デブ床は、山梨の出身らしいということは聞いた事がありますが、浅草で花魁の顔剃りをする前の事は良く分かりません。浅草には明治の頃は新吉原と呼ばれていた遊郭がありました。花魁の水白粉は顔に産毛が生えているとノリが悪くなるので、顔剃りが必用だったのだそうです。

デブ床は浅草での仕事が私の高祖父に気に入られ、長女の婿にと迎えられ、二人の間に私の祖父を含めた三人の子供ができたそうです。関東大震災で妻と当時3才だった一番下の女の子が倒壊した家の下敷きになって亡くなってからは、男手一つで息子二人を育てていました。女手がなかった為に、デブ床も息子達も家事をする事となり、私の家系の「男が台所に立つ」という習慣はその頃から始まったようです。料理に関しては、また別に書きたいと思っていますが、私の父は豪快な料理をしたし、弟はシンプルだけれど繊細な料理をします。

そのうちにデブ床は、まだ芸者を始めて何年も絶っていないおばあばに惚れ込んでしまい、息子達の反対を押し切って一緒になろうと身請けをしたようです。昔、浅草で裏方として働いていた事もあって、デブ床にとっては芸者と一緒になるというのは、それほど突飛な事ではなかったのでしょう。結局入籍はしなかったのですが、店の裏手にあった家を借りて二人は住み始めました。

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