一階が床屋、二階の半分は母がやっていた美容院、もう半分は台所兼食堂兼通路でした。私達家族も従業員も皆そこで交代で食事をしたのですが、家族だけで7人、最盛期には従業員も混ぜると13人から15人もおり、食事をしている後ろをいつも誰かが通り過ぎているようなせわしないものでした。
店が忙しい日には、私も食材を買いに行ったり15人分の食事の用意をしました。やりたかったわけではないのですが、作る人がいなければ誰も何も食べられないので、仕方なかったのです。いつ頃から料理を始めたのかは記憶にありませんが、中学生位の時には、普通にある物で何でも調理できたと思います。ただ、お菓子などを作るような生活の余裕がなかったので、今でもお菓子作りは苦手です。
三階と四階には部屋が5つあり、家族7人と従業員が6〜8人が住んでいました。プライバシーなどなく、いつも誰かが急いで階段を上り下りする音が聞こえ、電話がかかってくれば5台程ある子機が一斉に鳴るのでトンネルのように細長い鉄筋コンクリートの建物に大きく響き渡りました。
昭和50年代中頃に、過密な居住スペースを改善する為に、父は店からほど近い当時相高ストアーだった建物の上の共同住宅を購入し、そこに祖母と私と二番目の妹が移りました。今はもう誰も住んではいないのですが、私達が帰省する時に使用する宿泊場所になっています。
父が亡くなった後の店は元の従業員に貸し出してあります。今は店舗の上には弟と店を貸し出している元の従業員が二人住んでいるのみです。三階に上がるとあれだけ騒がしかったのが嘘のようにひっそりとしていおり、いつも人で溢れていた台所の電気も消えています。父が亡くなったとともに、家も役目を終えたのです。
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