2011年9月30日

父の彼女

「忙しいから彼女ができないなんて言う男は、どっかおかしいんだって言われたよ。」
バツイチの友人が男友達から忠告を受けたのだそうです。そういえば、私にも思い当たる事があります。

父は現役のまま急死したので、葬儀の後の財務整理には、かなり慌ただしいものがありました。当面入っている予約などをキャンセルしなければいけないので、父が愛用していた手帳を開いて見ていると、短い日記のようなメモが細かい字で毎日書き込んでありました。大雑把だと思っていた父の意外な側面を見たような気がしました。

倒れた日には横浜崎陽軒でY高の同窓会に参加するはずで、その二日後にはゴルフに行く予定で… 10日の欄に「きょうことライオンキング」とありました。妹の一人が恭子という名なのですが、どうも変だと思ってたずねてみました。
「あんた、パパとライオンキング行くはずだったの?」
「ああ、それはパパの彼女だよ。何かのきっかけで知ったんだけど、ひらがなの『きょうこ』は彼女なんだよ。あと、もう一人女がいてさ、そっちの方は年に二回、お中元とお歳暮をちゃんとよこすから、商売人だと思うけど。」

父は、母が入院してからというもの、仕事をしながら病院にちょくちょく顔を出していて、しかも週末は朝の5時からゴルフに出かけるというハードスケジュールでした。一週間に一日ぐらい、何もしないで体を休める日でももうければ良かったのに、そういう事のできない人だったようです。しかもその上、彼女までいたとは!

腹が立つとか、母がかわいそうとか、そういう感情は不思議と出て来ませんでした。72才でそこまでできたとは、ただただ関心しました。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

2011年9月29日

健康のために、家族のために

私の息子は、良くも悪くも大きく平均値から外れています。手のかからないよその家の子を見ると、羨ましく思う事もありますが、そのユニークさゆえに、自分の子供をことさら愛しく思います。自分の命に代えても惜しくないとはこういう事なのでしょう。

その息子を悲しませない為にも、自分の体を大事にしなければならないと40才を過ぎた頃から思うようになりました。そして45才を過ぎた頃から、本当にガタが来ました。ただし、思うのは一瞬で簡単にできるけれど、実行に移すのは時間も労力もかかります。

昨日は、様々な言い訳との格闘をし、脳卒中になった両親の事を思い、やっと重い腰を上げました。9月にニューヨークへ戻ってから、一度も歩いていなかったので、久しぶりなのですが、アストリアの自宅から、ジャクソンハイツまで歩いて帰って来ました。距離にして8.4k程。しばらくぶりで長い距離を歩いたので、帰りは競歩ができず、普通に早足で歩いて帰って来ました。

今まで車で何度も通りすぎながら気になってはいたけれど、じっくりと眺める事ができなかったインド料理屋を覗いたり、実はジャクソンハイツは歩いてもそれほど遠くないというのを発見したり、歩く楽しみを再度発見しました。今日は少し湿気が高かったのですが、これからは運動をするのにも気持ちのいい季節になります。健康で長生きしたいものです。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

2011年9月28日

謎の肉

戦中戦後の食べ物がない時でも、手段はどうであれ、私の曾祖父は必ず何かをどこかから見つけて来たので、一家がお腹を空かせる事はなかったと聞きます。これは、私の祖母が教えてくれたエピソードです。

ある日、曾祖父が私の祖母に、
「これから肉食うからみんなを呼んできな。」
と言って肉を醤油と砂糖の味付けで調理しだしたそうです。調理している時に、泡のようなものがブクブク出てきたのを見て、
「何、この肉?」
と祖母は聞いたそうです。曾祖父はただニヤニヤしているだけで、何も言わなかったのですが、肉を食べるのは久しぶりなので、ちょっと変だとは思ったけれど、みんな喜んで食べたそうです。

食べていると、ヤケに固いというかスジがあるような、噛むのが大変なような… 食べ終わった後で祖母が、
「ねえ、あの肉何だったのよ?」
と聞くと、曾祖父は、
「ニャ〜!」

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

2011年9月27日

子供の頃、私は父が大嫌いでした。夜遅くに酔いつぶれて帰って来る事がよくあったし、酔うと寺内貫太郎一家みたいな家族全員を巻き込んだ上を下への大騒ぎになることがよくあったからです。父の関心事は家庭ではなく仕事だったために、自宅で働いていたにも関わらず、私は父の事をあまり知りませんでした。

そもそも私の両親は、お世辞にも仲の良い夫婦とは言えませんでした。性格も全く異なるし、ただ実家が床屋をしていて年令と家が近いという、便宜上の条件が合った為に結婚したようなもので、恋愛感情やお互いを思いやる気持ちなど最初から全く存在しなかったからだと思います。それでも責任感の強さからか、決して逃げ出す事なく、お互いの役割はきっちりと全うしていました。

子供も成長して次々に家から離れていき、祖母も亡くなり、歳をとるとともに父も少し丸くなり、夫婦だけの時間も増えて、溝も少し浅くなってきたかなと思った頃、母は脳卒中で倒れてしまいました。私は遠方に住む為に、すぐに駆けつけることができなかったのですが、洗濯屋のおばちゃんの話によると、救急病院での父は放心状態だったようです。

おそらく父の中には、自分が先に逝くと信じていたのに母が先に病気で倒れてしまった事への驚き、母を心身ともに虐待した事に関する罪悪感、これからやっとお互いの時間が持てると思っていたのにそれが叶わなかった事への悔しさなどがあったのだろうと思います。

それからの父は、人が変わったように母の看護を献身的に行いました。仕事が忙しい日も合間を見てタクシーを走らせ病院へ行き、そこに車を待たせたまま五分だけでも母に会った後、その車で仕事に戻っていたようです。どうしても病院に行けないような日は、親戚に電話を入れて代わりに面会に行ってもらったりと、必ず毎日誰かが会いに行くように心を配っていました。

母の意識が徐々に戻って来て、少しずつ目が覚めている時間も増え、余り言葉は話せなくても自分で食事もできるようになる間、父は母の側に付き添っていました。母もあまりはっきりとはしない意識の中で、毎日病院に顔を見せる父に信頼を寄せるようになったのだろうと思います。

残念ながら、母が倒れてから一年半程経った頃、今度は父が倒れてしまいました。仕事も遊びも看病も全く手を抜かなかったので、心と体の疲労がピークに達していたのでしょう。あっという間の出来事で、ニューヨークに住む私は臨終にも間に合いませんでした。あんなに憎んでいたのに、父の死を知った母の悲しみはかなり深いものでした。今でも母に会う度に、心の奥で父を弔っているのだというのを感じます。

それでも、私の中には何か清々しい気持ちが残りました。父は自分が好きなように精一杯生きた人だし、最後の一年半は、誰もが驚く程に母に尽くしたのです。夫婦というもの、連れ添うというのは、こういう事なのだと何十年も両親を見てきた末に思いました。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

遺伝

デブ床と呼ばれていた私の曾祖父は、クロダイ釣りの名人だったようで、逗子海岸で泳ぎながら糸を垂れて魚を釣っていたと聞きます。私が子供の頃には、簡単な釣り竿と木のエサ箱が残っていました。あんこうも、自分で釣って来たのかどうかは分からないのですが、手に入ると、家の中庭にあった木にぶる下げて解体していたそうです。悪知恵が働いて意地も悪かったと聞きますが、食べ物が手に入った時には必ず近所に住んでいる親戚も呼んで振舞うような気前のいい所もあったようです。

私の弟もかなりの釣り好きです。帰省すると、竿が何本もあり、様々な種類のおもりやウキや疑似餌などが篭に入っているのを見かけます。結構上手なようで、自分で釣って来た魚はさばいて食べています。クロダイも自宅でさばけないくらい大きいのが釣れた時には寿司屋に引き取ってもらったそうです。

何年か前に帰省したときに、弟がイカを釣って来たらしく、ちょうど家でさばいている所でした。自分の部屋からマイ包丁を持ち出し、ペーパータオルを使って綺麗に皮を剥いて、私に食べさせてくれるのかと思ったら、全て味噌漬けにして冷蔵庫に入れてしまいました。
「何よ!しばらくぶりに帰って来たからお刺身にして御馳走してくれるんだと思って待ってたら、全部味噌漬けにしちゃうの?」
「いや、こうやって味噌漬けにしておいて、イカのとれない時に焼いて食べるのが贅沢なんだよ。」
「今度釣って来たら食べさせてよ!」
「でもイカの刺身もさ、一回凍らせてからの方が美味しいんだよ。」
釣りの腕は遺伝したのかもしれませんが、気前の良さは遺伝していないようです。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

2011年9月25日

煙草

私が帰省するときには、母を老人ホームから家に迎えて一泊させてあげる事にしています。ただし、設備の整っていない狭い所で車いす生活の母の世話をするのは心配だし、かなり重労働でもあるので、私一人ではできません。必ず妹か弟に手伝ってもらう事にしています。

今年は母が泊まりに来た日が丁度お盆の期間でもあったので、お墓参りに一緒に行きました。お寺もお墓も逗子にあるので、歩いて行ける距離なのです。弟が車いすを押してくれたので、車輪が走りにくい歩道でもグングン進んで行きました。

途中でお花を買って、お線香を買って火をつけて、水をバケツに汲んで、迷路のようなお墓の通路も車いすは速いスピードで進んで行きます。お墓に着いてから簡単に敷地を掃除し、今まで上がっていたお花を下げて水を入れ替え、墓石にも水をかけ、新しいお花を上げ、お線香を祠のようになった所に入れると、弟はそこに火をつけた煙草も入れたのです。
「何で煙草お供えするのよ?パパ煙草吸わなかったじゃん?」
「実っちゃんだよ。」
「ああ、そうだったね。」
実っちゃんは、おばあばが芸者をしていた時に産んだ子供です。 赤ん坊がいては仕事にならないので、実っちゃんは産まれてすぐに里子に出されたそうです。おばあばが芸者を止めて、私の曾祖父と暮らすようになってから呼び戻されたそうですが、実の母と子とは言え、今まで殆ど面識もなかった上に、おばあばは家庭など持った事もないために、多感な年令の娘との接し方も分からず、関係はぎくしゃくしていたと聞きました。

私の曾祖父にとっても実っちゃんは他の男の子供だし、おばあばとの生活には都合の悪い存在です。実っちゃんには、年令が少し下の私の父やおば達の子守りをさせ、かなり辛く当たっていたと聞きました。実っちゃんはかなり勉強ができて成績は良かったけれど、いつしか家出を繰り返すようになったそうです。

時が経ち、私の父も成長して競技会などで頭角を現すようになり、いつまでも独身でいるのも良くないと、実っちゃんに縁談を持ちこんだのだそうです。結納を交わし、式を挙げると、次の日に実っちゃんは帰って来てしまったのです。その日から、実っちゃんは男として生活し始めました。私が子供の頃は、友人から「あの人、男?それとも女?」と何度か聞かれた事を覚えています。いつも男装で、声も低いし、男のようだけれど、やはりどこか女のようでもあったのです。

私も子供の頃には時々面倒を見てもらいましたが、特に弟は毎日のように近くの公園に連れて行って遊んでもらっていました。その事を弟は忘れていないのです。実っちゃんが肺がんにかかって入院した時にも、私は既にアメリカで生活をしていたのですが、弟は頻繁にお見舞いに行ったのだと母から聞きました。

「ハイ、じゃあナムナムしてね。」
弟が母に言うと、母は自由の利く左手を顔の前に持って来て、お参りしました。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

2011年9月24日

芸者

私が知るおばあばは、私達の住む五階建て鉄筋コンクリートのビルの裏にある借家で小唄を教えながらひっそりと住んでいました。お弟子さんに稽古を付けている時には、三味線の音や粋な歌声が私の家の三階の台所まで聞こえて来ました。細身で地味な人で、昔芸者をやっていたような華やかさは全然感じられませんでした。

おばあばが住んでいた家は、関東大震災直後に急場しのぎのために廃材を使って建てられた家だそうで、長く使い込まれて赤茶色に光った柱には、釘を抜いた後や蝶番を取った後がありました。その平屋には二世帯が入るようになっており、半分にはおばあばが住み、もう半分には夏になると逗子海岸に行く海水浴客に浮き輪やゴム草履を売る裁縫店の一家が住んでいました。

昔は逗子にも一丁目の裏あたりに花柳界があったそうです。逗子は横須賀港への便が良いために海軍関係の人々が住んでいたり、昔は金持ちの大きなお屋敷も結構あったので、宴席を張るために芸者の需要があったのでしょう。おばあばは金沢文庫辺りの出身だと聞きましたが13才で芸者になり14才で子供を産んだそうです。芸者をしながら子育てはできないので、子供は里子に出したのだそうです。

一方デブ床は、山梨の出身らしいということは聞いた事がありますが、浅草で花魁の顔剃りをする前の事は良く分かりません。浅草には明治の頃は新吉原と呼ばれていた遊郭がありました。花魁の水白粉は顔に産毛が生えているとノリが悪くなるので、顔剃りが必用だったのだそうです。

デブ床は浅草での仕事が私の高祖父に気に入られ、長女の婿にと迎えられ、二人の間に私の祖父を含めた三人の子供ができたそうです。関東大震災で妻と当時3才だった一番下の女の子が倒壊した家の下敷きになって亡くなってからは、男手一つで息子二人を育てていました。女手がなかった為に、デブ床も息子達も家事をする事となり、私の家系の「男が台所に立つ」という習慣はその頃から始まったようです。料理に関しては、また別に書きたいと思っていますが、私の父は豪快な料理をしたし、弟はシンプルだけれど繊細な料理をします。

そのうちにデブ床は、まだ芸者を始めて何年も絶っていないおばあばに惚れ込んでしまい、息子達の反対を押し切って一緒になろうと身請けをしたようです。昔、浅草で裏方として働いていた事もあって、デブ床にとっては芸者と一緒になるというのは、それほど突飛な事ではなかったのでしょう。結局入籍はしなかったのですが、店の裏手にあった家を借りて二人は住み始めました。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

2011年9月23日

高祖父と高祖母

私の先祖には全く地味なところがなく、かなりアクの強い人達が多いようです。高祖父は逗子で床屋をしており、高祖母との間に男三人、女二人の子供をもうけました。ところが高祖母は、五人の子供がいながら従業員と不義の関係になってしまい、葉山の実家に戻されてしまったのだそうです。実家が角田という名字だったのでしょう、角田のおばあさんと呼ばれていたようです。

高祖母は、洗濯屋のおばちゃんの話によると意地悪な人だったそうで、確かに残っている写真の顔を見ると意地悪そうではあります。それでもお裁縫が得意で私の祖母とはウマが合ったらしく、祖母はお裁縫を時々頼んでいたと聞いた事があります。

高祖父は浅草で花魁の顔剃りをしていた曾祖父の事を知り、その腕に惚れ込んだので長女と結婚させたそうです。一つ分からないのは、何故高祖父に息子が三人もいながら、しかも三人とも床屋をしていたというのにわざわざ長女に婿を取ったのかという事です。いくら曾祖父の腕が良く口もうまかったからといって、当時は明治か大正時代で、長男が家督を継ぐというのが当たり前だった事を考えると、息子達からかなりの反発や批判があったはずです。

私の姓も、実は高祖父の姓ではなく曾祖父の姓だと聞いています。「おじいちゃんが名前をちゃんとしなかったから…」と父のすぐ下の妹が嘆いていたのを聞いた事もあります。家の戒名を見た時にも、墓石にも高祖父の名はなく、最初の死者は関東大震災で亡くなった曾祖母と当時3才の女の子です。もしも本当に高祖父が曾祖父を婿養子にしようと考えていたならば、おそらく私の曾祖父は正式な養子縁組をしなかった為に家督を取り損なったのだろうと思います。

逗子のキングストアーの前当たりに、少し前まで床屋がありました。そこの床屋とは親戚だとは何人かの人に聞いた事があります。どういう親戚関係なのかは、誰も説明してくれなかったのですが、多分私の高祖父の息子の一人が出した店だと思います。高祖父の姓とそこの床屋の姓が同じなので、間違いないでしょう。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

2011年9月22日

両親のやっていた床屋と美容院は逗子の商店街の中にありました。現在のビルは、昭和40年代中頃に建てられたものです。父は仕事にとりわけ情熱を注いでおり、従業員を同居させて仕事を教える徒弟制度を導入していました。多くの従業員は初めはインターンとして、主に秋田県から中学や高校を卒業して間もなくやって来るのです。国家試験に受かると正式に理容師としての免許がもらえるのですが、大抵は父の元で数年間働いて仕事を学びながら資金を貯めた後、独立して自分の店を出していました。

一階が床屋、二階の半分は母がやっていた美容院、もう半分は台所兼食堂兼通路でした。私達家族も従業員も皆そこで交代で食事をしたのですが、家族だけで7人、最盛期には従業員も混ぜると13人から15人もおり、食事をしている後ろをいつも誰かが通り過ぎているようなせわしないものでした。

店が忙しい日には、私も食材を買いに行ったり15人分の食事の用意をしました。やりたかったわけではないのですが、作る人がいなければ誰も何も食べられないので、仕方なかったのです。いつ頃から料理を始めたのかは記憶にありませんが、中学生位の時には、普通にある物で何でも調理できたと思います。ただ、お菓子などを作るような生活の余裕がなかったので、今でもお菓子作りは苦手です。

三階と四階には部屋が5つあり、家族7人と従業員が6〜8人が住んでいました。プライバシーなどなく、いつも誰かが急いで階段を上り下りする音が聞こえ、電話がかかってくれば5台程ある子機が一斉に鳴るのでトンネルのように細長い鉄筋コンクリートの建物に大きく響き渡りました。

昭和50年代中頃に、過密な居住スペースを改善する為に、父は店からほど近い当時相高ストアーだった建物の上の共同住宅を購入し、そこに祖母と私と二番目の妹が移りました。今はもう誰も住んではいないのですが、私達が帰省する時に使用する宿泊場所になっています。

父が亡くなった後の店は元の従業員に貸し出してあります。今は店舗の上には弟と店を貸し出している元の従業員が二人住んでいるのみです。三階に上がるとあれだけ騒がしかったのが嘘のようにひっそりとしていおり、いつも人で溢れていた台所の電気も消えています。父が亡くなったとともに、家も役目を終えたのです。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

自信とコミュニケーション

苦手だった近所付き合いや親戚付き合いが自然にできるようになっていて、今年の夏は我ながら驚きました。やってみればそれほど難しい事ではなく、ちょっとした会話が人間関係の潤滑油となるのです。

そして調子に乗って「若い人はコミュニケーション能力に欠けるよね。コミュニケーションとらないと損なのにね。」と友人に話したら、「それは若い人には自信がないからだよ。私もそうだったもん。」と鋭い指摘をいただきました。

人は人生のどこかで自信をつけなければいけません。自信は他人の評価とは全く関係なく、どんなに成功しても自信のない人がいる反面、どんなに失敗しても自信のある人もいます。自信がないと自分の言いたい事も躊躇して言えないので、当然コミュニケーションなどとれません。

私の劣等感は受験を通して染み付きました。日本の受験は学歴社会の優位に立つ事が本来の目的なのですが、自信を勝ち得るという隠れているけれど重要な側面があると思います。そんなちっぽけな劣等感はニューヨークで葛藤する日々の中で既に克服できたと思っていたのですが、何かに躓く度に心のどこかに住む否定的でオドオドした小さな自分が出て来ます。

だからと言って私も大人なので、家で布団を被って寝ているわけにもいきません。気乗りはしなくても、今日も5時起きして所属を考えているビジネスネットワーキングの会を視察してきました。20人程のメンバーがお互いに仕事を紹介しあう目的で、毎週決まった曜日の朝に顔を合わせるのですが、ここ数年の景気の後退によってどこのグループもメンバーの数は減っている様に思えます。

アメリカ人ばかりのビジネスグループで自分の仕事をアピールするのは簡単ではありません。私は日本語ではかなり上手にコミュニケーションがとれ、英語の能力も高いと自負していますが、それでも日本語で話すようには行きません。でもその逆に、例え英語の能力などあまりなくても、高いコミュニケーション能力で多くを乗り切ってしまう人もいるのです。やはり、自己評価の高さ、自信がコミュニケーション能力の高さに結びつくのでしょう。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

2011年9月21日

引き出し

何故こんなロクでもないことを毎日書き始めたのか。それは帰省したことによって、今までは閉まっていた引き出しが開いてしまったからです。私はデザインを生業としていて、他人様の仕事を良く見せることでお金をいただいているので、仕事は自分の情熱を注ぐ個人的なプロジェクトではありません。ところが、私の実際の人生は振り子の針のように自己表現と仕事との間を行ったり来たりしているのです。

もしかしたら、今のような仕事の期間も満期になりつつあるのかもしれません。もしかしたら、ただ単に景気が悪く、クライアントの資金が足りない為にプロジェクトが開始できないどん詰まりに来ているだけなのかもしれません。それとも私も40代中盤に入り、アメリカで頻繁にいわれる mid life crisis というものに遭遇しているのかもしれません。

今日、エッチングを制作している私の友人のウェブサイトを見て、お前もかと思いました。彼女と私の感性は大きく異なるのですが、最近の個展のお題が「ひき出しの奥にある風景」というものだったからです。

この厄介な引き出し、パンドラの箱、can of worms … どうしたらいいのか、持て余しています。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

2011年9月20日

息子とおばあちゃん

母が倒れてから7年になり、父が他界してからも既に5年になります。日本に帰省できるのも母が生きている間だけだろうと思うと、少々無理をしてでも毎年日本へ帰省するようにしています。

今年は東北の大地震あり、福島の原発事故あり、関東で高まった更なる大地震の可能性ありと、はっきり言って3月の時点では帰省にも躊躇しました。でも事態も落ち付きはじめ、私なりに資料も検討し、総合的に考えてみて帰省を取りやめるまでもないと判断しました。

母が元気だったらどんなだろうと考える事もありますが、もう既に起ってしまった事はいくら嘆いても時間が戻るものでもありません。母が生きている間に少しでも成長した息子の姿を見せたい、息子にもおばあちゃんを知って欲しいのです。また、私の夫は両親を早く亡くしているため、私の母が息子にとってはたったひとりの大切な祖母となります。

本来ならば、もっと自由に孫と遊んだりおもちゃを買ってあげたいのでしょうが、それができないのはもどかしい事だろうと思います。息子にとっても、なかなか会うことができないおばあちゃんに甘やかされる経験が持てないのは大きな損失です。それでも息子はおばあちゃんが特別な存在だという事を理解しているのか、それとも私に気をつかっているのか「おばあちゃんに会いたい」と言ってくれます。

また今年は息子に母が元気な頃の話をしてあげました。「おばあちゃんは、勇くんが産まれたばかりの時にニューヨークに来て、お風呂に入れてくれたんだよ。」と話すと、ちょっと間を置いてから「もっとおばあちゃんが好きになって来た。」と言ってくれました。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

デブ床

「デブ床」は私の曾祖父で、私が一歳になるぐらいまで生きていました。その名の通り、デブの床屋というあだ名です。かなりアクの強い人だったようで、私が小学生の頃は曾祖父を知る人もまだ多く、友人宅に遊びに行ったりした際にデブ床の孫と言われるのがたまらなく嫌でした。これを言われる度に、卑しい下層階級の烙印を押されたような気がしたのです。実際には私はひ孫なのですが。

曾祖父は、最後の8年間は自宅で寝たきりでした。赤ん坊の私が曾祖父の出っ張ったお腹の上に這い上がってしまったので慌てて大人に取り除かれたのが、曾祖父に関する唯一の私の記憶です。

今年の夏に帰省した時に、いつものように古いアルバムを開いて見ていると、今までは気づかなかった曾祖父の写真を見つけました。宴席で撮られたらしい小さい白黒の写真で、顔を覆い着物をはだけて露出させたお腹には、マジックで顔が書いてあるのです。曾祖父は腹踊りが得意だったと聞いた事がありますが、写真は初めて見ました。

次に帰省するときには、小型のスキャナーをアメリカから持って行くか日本で購入して、実家にある写真をスキャンしたいと思っています。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

2011年9月19日

駄菓子屋

逗子小学校のすぐ側に、老夫婦がやっている駄菓子屋はありました。昭和30年代には逗子にも駄菓子屋が何件かあったのかもしれませんが、私が子供の頃にはそこしかありませんでした。ボロボロのトタン屋根のあばらやの奥が老夫婦の生活スペース、店は土間にもうけられていました。

お小遣いがあるとそこへ行って、あんこだま、麩菓子、カレーせんべい、ニッキ、飴くじ、酸イカ、ソースせんべい、ミルクせんべい、梅ジャム、すもも、あんず水等々の駄菓子を買っては、市民体育館前の広場で食べたのを憶えています。50円もあれば結構楽しめたので、子供達には絶大な人気を誇っていました。

時々大人が付き添って来て、100円をおばあさんに渡すと「何でも好きなの取って良いよ。」と言われるのですが、それだとあまり面白くないのです。少ないお小遣いの中からどの駄菓子を買おうか考えてやりくりするのが自由を感じて楽しかったのです。

小学校を卒業し、別の方角にある中学校に通うようになって、駄菓子屋の前を通る事も駄菓子屋に行こうと思う事もなくなり、気がついたらそのあばらやは既に無くなっていました。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

2011年9月18日

おんくろだなううんじゃく

望郷のニューヨーカー 祖母は若い時には苦労したようですが、50才ぐらいから隠居生活を満喫しはじめる事ができました。家の商売は私の両親が切り盛りしていたし、祖父が戦死したために恩給が出ていたので、元気な頃は、国内外問わずあちこち旅行へ行ったりお参りに行ったりしていました。その中でも、とりわけ祖母が情熱を注いでいたのがお遍路さんです。

白木の杖を持ち、真っ白な浴衣を羽織って四国八十八箇所などの霊場を巡っては、それぞれの寺院の判子をその浴衣に押してもらうのだそうです。丁度、今で言うスタンプラリーです。「六根清浄、六根清浄(ろっこんしょうじょう)」と唱えながら巡るのだと教えてくれました。

その巡礼先で買って来たらしいお札のひとつに、祖母曰く「便所の神様」というのがありました。とても怖い憤怒の形相をして炎を背負ったインドの神様みたいなのが、A4サイズぐらいの紙に印刷してあるのです。祖母は、これを便器の真っ正面に貼付けました。

座ると嫌でも恐ろしい形相が目に入り、特に夜中は怖いので、お願いだから取り外して欲しいと頼んでも、あれはずっと自分で用が足せるように守ってくれる神様なんだから何も怖い事はない、と言って外してくれませんでした。何年間もずっとトイレのドアに貼ってあったので、書いてあった「おんくろだなううんじゃく」という呪文も烏枢沙魔明王(うすさまみょうおう)という名も脳裏に焼き付いて離れなくなってしまいました。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

田越川

田越川は逗子中をくねくねと曲がって流れ、途中にある幾つもの橋をくぐり、逗子海岸に注ぎます。清水橋も田越川にかかる橋の一つで、逗子小学校までの通学路の一端です。

清水橋近辺の田越川の川底は、今では綺麗にさらってあり、土手も補強され、川縁の歩道には人が川に落ちないように鉄製の頑丈な手すりがもうけてあります。でも昭和40年代にはコンクリートか石積みの土手はあったものの手すりはなく、その下の盛り上がった川岸には様々な植物がうっそうと自生していました。

川岸には子供でも簡単に下りる事ができたので、学校の帰りに友達と下りて遊んだのを憶えています。秋になると、すすき、数珠玉、彼岸花などが見られました。一度、草の茎に付いた薄茶色の泡のような物を見つけたので家に持ってかえったら、カマキリの卵だから捨ててこいと言われたのも、今では遠い想い出です。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

2011年9月17日

洗濯屋のおじちゃん

東京で生まれ育ったからか、親戚の洗濯屋のおじちゃんは、巣鴨のお地蔵さんの熱狂的な信者です。元気な頃は、わざわざ逗子から巣鴨までお地蔵さんのお札をまとめ買いに行っていました。お札と言っても、2㎝ x1㎝位の和紙にお地蔵さんの姿が黒いインクで刷られたものです。たしか、何枚かのお札が「御影」と書いてある紙に包んであったと思います。
「おじちゃんなんかね、もう頭が痛いかなっていうと、すぐにお地蔵さんを飲んじゃうんだよ。そうするとね、ピタッと止まるよ。刺なんかもね、ほら刺抜き地蔵って言うでしょ?これ貼っとくと、治っちゃうんだよ。」
子供心にもそんな事はないだろうと怪訝に思っていましたが、もしかしたら何か仕掛けがあるのかも知れないとも思い、
「何か塗ってあるの?」と私が聞くと、
「そんなもん塗ってないよ。ありがたいんだよ、これは。」という、さらに良く分からない答えが返って来ました。
おじちゃんは以前に書いたおばちゃんの弟で、もう80才を過ぎています。若い頃から山登りやスキーに親しんでおり、私達が子供の頃も近所の鷹取山や二子山、お猿畑など色々な所へハイキングに連れて行ってくれました。その想い出があるからこそ、私も息子を鷹取山に連れて行こうと思い立ったのです。

10年以上前に病気で片方の肺を摘出してからは体力もかなり落ちてしまい、遊びに行くといつも居間で横になってテレビを見ています。それでも毎日ゆっくりと、2時間程の散歩は欠かしていないのだと聞いて関心しました。暑い夏でも途中で何度か休みながら、日陰を選んで歩くのだそうです。

今年の8月の滞在中に、散歩の途中で私の滞在するアパートへ立ち寄り、お小遣いをくれました。おじちゃんに、もうお小遣いなんてもらう歳じゃないと言っても、「そんじゃあ、おもちゃでも子供に買ってやんなよ。」と言います。私は既にどこから見ても立派な中年なのに、まだ子供だと思っているのでしょうか。いただいたお小遣いは、本当に子供のおもちゃ代に消えました。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

2011年9月16日

銭洗弁天

最近まで実家は商売をしていたので、巳の日になると祖母は必ず早く起きて銭洗弁天へお釣り銭を洗いに行っていました。その甲斐あってか実家の床屋はとても繁盛し、70年代には従業員が8人ぐらいいました。

私も祖母に連れられて、1〜2回は行ったような記憶があります。とても活気があって楽しかったのを憶えていたので、10代の頃にふらりと行ってみたのですが、誰もいないで閑散としていました。祖母にそれを話すと、
「アンタ、銭洗弁天は巳の日に行かないと何にもならないのよ。」
そうか、ただ行くだけではご利益はないんだ、行く日が重要なんだ、と初めて知りました。

それから私の人生にも紆余曲折あり、銭洗弁天に再び訪れる事もなかったのですが、今年の夏にふと思い立ちました。ここ数年景気も悪く経済状況も厳しいので、ここはひとつ銭洗弁天に行ってご利益に預かったらどうだろう。

早速巳の日を調べ、逗子に泊まりに来る予定の友人を誘いました。
「銭洗弁天行こうよ。」
「えっ?銭洗弁天?良いかも。この辺で少し、金運良くなってもらわないとね。」
「私、円もドルも洗う。」
「私はユーロもあるから洗おうかな。中国のもあったかも。この際、全部持ってって洗っちゃおう。」

金に目がくらんだ大人とは裏腹に、あまり気乗りのしない息子を引きずって、鎌倉駅から住宅地の中を延々と30分ぐらい歩いてようやくたどり着きました。銭洗弁天自体は、木々が茂る小高い丘の上にあるし、お金を洗うのは洞窟の中なので、あまり暑さは感じませんでした。巳の日であるにも関わらず、それほど混んでいなかったのは、早朝ではなかったからかも知れません。

竹のザルにお金を入れて、それに柄杓で汲んだ水をかけるのは、それ自体楽しい行為です。それまでダラッとしていた息子もここでは溌剌とドルを洗っていました。

昨日一緒に行った友人からメールが届き、その時に撮った写真とともに金運がじわじわと上昇してきているような気がするとの知らせがありました。私は洗い方が悪かったのか、今の所金運に変化はありません。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

ペット

今年の夏、息子は母の入居する老人ホームで働いている人から立派なオスのカブトムシをもらって大喜びしました。息子にとっては初めてのペットで、日本にいる間は昆虫ゼリーをあげたり、手の上に乗せたりして楽しませてもらいました。

それを群馬に住む妹に電話で話した所、「ウチでもペット飼ってるよ。」と答えがかえって来ました。

「何?」
「芋虫。」
「捕まえたの?」
「うん。ベランダの植物に結構大きいのがくっついてたから、それを捕ってビンに入れて育ててるんだけど、よく食べるし正露丸みたいなウンチをコロコロするんだよ。でも最近動かないんだよね。色も赤紫色になってるし、死んじゃったのかな。」
「写真送ってよ。何が出て来るのかな?」
「わかんない。でも、蛾々様が出て来たらヤダなぁ。」

そして、「サナギちゃん」というタイトルで8月の上旬に上の写メを送って来ました。その後どうなったのか、何度か電話で話した時に必ず聞いていたのですが、何の変化もなかったようです。

9月に入ってニューヨークに戻り、夏の昆虫の事などすっかり忘れていたら、妹からメールが届きました。「サザナミスズメという恐ろしい蛾になりました。」と書いてありました。手塩にかけて育てた芋虫が蛾だったのか…と笑ってしまいましたが、芋虫の状態で死んでなくてなによりでした。でも、サザナミスズメの幼虫ってネットで見たら緑色なんですけど。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

2011年9月15日

手を合わせる

私は一様、洗礼を受けたカトリックなのですが、ユダヤ人と結婚したこともあり、ニューヨークでは教会へは行っていません。そうかと言って、シナゴーグに通っているわけでもないので、礼拝の類にはアメリカではご無沙汰しています。

日本では、お墓参りや神社のお参り、仏壇へのお供えなど、何かと手を合わせる機会があります。子供の頃からの習慣だし、そういうものだと教えられてきたから、例え鶴岡八幡宮のような観光地でも、行ったらお参りしないとバチが当たるような気がします。

今回帰省していつものようにお墓参りをした時に、子供の頃からの素朴な疑問が再び浮かび上がってきました。手を合わせている間に、一体何を心の中に願ったらいいのか、分からないのです。普段から、ああしたいこうしたい、アレが欲しいコレが欲しいという願望は沢山あるものの、実際に神社仏閣でお参りする時には、そういう事を全て忘れてしまうのです。そしていつものように、何を願おうかちょっと迷ったあげく、取って付けたようなお決まりの願い事をしました。家族が健康でありますように。

でも、手を合わせた途端に心の中が空白になってしまうのは、悪い事ではないのかも知れないとふと思いました。普段は日常生活にまみれて、世俗的な事にあれこれ心を惑わしているのだから、せめてお参りする時ぐらいには、何も願わず心を空っぽにしてみたい衝動にかられました。

お墓の前に立って、ただ目を瞑って手を合わせていると、蝉の鳴き声や風の音、人の声、遠くを走る電車の音などが聞こえます。そして、心が落ち着いて来て気持ちがいいのです。あいにく、8歳の息子と一緒だったので、そんな心の洗濯ができたのはほんの一瞬なのですが。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

ニューヨークと逗子

ニューヨークに戻ってきてから初めてビジネスミーティングに顔を出しました。私が所属していたグループは、7月の末に解散してしまったため、新しく所属できるグループを現在捜索中です。

朝早く地下鉄に乗り他の通勤客とともにマンハッタンに出ると、期待と興奮に満ちたような一種独特の何とも言えない空気が流れているのに気がつきました。毎日暮らしていると人ごみや騒音がただ煩わしいだけなのに、しばらく見ないと別の角度から見る事ができるのでしょう。

今回日本に滞在していた時に出版関係の人と会う機会があり、その方がニューヨークに関して面白い表現をしていました。
「仕事でニューヨークに行ってそのエネルギーに触発されて帰ってくると、なんで日本人はノロノロしているんだろうと思ってイライラする。でもそれがカリフォルニアに行って、リラックスした雰囲気に浸って帰ってくると、なんで日本人はこんなにせかせかして働いているんだろうと思う。」

日本にいた頃、私の生まれ育った逗子近辺には、魔物が住んでいるのではないかと思うことがありました。魔物は人の心をつかみ、ゆっくりとした時間の流れに心地よく身を任せさせ、気がつくと10年経っているのです。鎌倉に出て江の電に乗ったりすれば、外の世界と遮断されたようなけだるい空気に恐ろしささえ感じます。

なんだかホテルカリフォルニアみたいですが、そういう意味では、逗子周辺は、ニューヨークよりもカリフォルニアにずっと近いのでしょう。ニューヨークに居着く日本人には関西出身者が多く、湘南出身者は殆どいないのも偶然ではありません。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

2011年9月12日

10周年

10年前の今日、私はミッドタウンで働いていました。出社した時には、既に煙をあげているWTCがオフィスの窓から良く見えました。会社のオフィスは、WTCの両方のタワーにもあったので社内の雰囲気は尋常ではありませんでした。

幸い、私は直接の被害者ではありません。それでも事件の後しばらくはWTCで亡くなった人々の悲惨な最後が考えたくないのに頭から離れなくなってしまいました。申し訳ないのですが、地下鉄でも中東系の人を見かけると、もしかしたら自爆するかもしれないなどと考え、恐怖のあまり次の駅で下りてしまった事も何度かあります。

日本に住む家族や親戚、友人からも安否を気遣う電話やメールをもらい、他の多くの日本人も9/11の被害者に対して同情と共感を持ってくれているものだと自動的に思っていました。ところが、そうでもないのだということが暫くして分かってきました。

9/11はアメリカ帝国支配への報復で、WTCで死んだ人々も直接外国人を支配しようとしたわけではないけれど、アメリカにある会社で働く事によってその片棒を担いでいたと考える人が少なくないようなのです。いままでは、第三世界の国々や中東が大惨事の現場だったけれど、今度はアメリカの番であるとか、虐殺される者の気持ちを知れというようなものもありました。

確かに、それはそれで立派な理論です。アメリカ人は、自国の兵士の死亡者数には敏感だけれど、イラクやアフガニスタン市民の死亡者数には無頓着だというのは事実だと思うので、あえて反論しようとも思いません。

でも、ただ単純に多くの人が不幸にも悲惨な最後を遂げたことに関する同情や弔いの気持ちがあまり感じられない事にかんして、大きなショックを受けました。アメリカ軍の爆弾で死んだイラク人も、自爆テロリストの巻き添えになったアフガニスタン人も、イラクで戦死したアメリカ人も、原爆で死んだ日本人も、空襲で死んだ日本人も、硫黄島で戦死した私の祖父も、全て不幸にも紛争に巻き込まれて失われた命で、それに優劣があるわけではないのに。

人間は、自分と同じ種類の人びとには共感を持つけれど、政治、宗教、国籍、人種、性別、国際関係が異なる状況にいる他人には、同じ人間であるという感情を持ちにくいものなのでしょう。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

2011年9月11日

本牧から池子へ

本牧の米軍住宅地が閉鎖され日本に返還される少し前に池子の米軍住宅地は設立されました。何故それまで使用していた本牧を閉鎖して、わざわざ反対運動の激しい逗子に住宅を移したのか、本当の所は知りません。

でも頭に浮かぶのは、本牧が返還される事に伴って生まれた地域の商業効果です。広大な土地の売却、商業地域の建設、そして雇用、横浜市には多額の資金が流れ込んだのだろうと思います。横浜市にも池子の接収地の一部はかかっているわけだから、逗子は横浜にまんまとしてやられたような気がします。

新しく持ち上がっている追加の住宅建設案にも、横浜市は早々に合意して土地の一部返還の約束まで米軍から引き出していると知って、そんな事が頭に浮かびました。やっぱり逗子の人はのんびりしているからでしょうか。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

池子

鷹取山の登山口と老人ホームに行く途中、京急逗子線の線路沿いに歩くと、左側にうっそうと茂る森が広がっています。ここは、私が高校時代に毎日歩いた道でもありました。

以前は池子の弾薬庫と呼ばれ、今では池子の森と呼ばれているようです。周囲をフェンスで囲まれたその一帯は、戦前から市民の立ち入りが一切禁止されているために、様々な想像をかき立てて来ました。私が子供の頃の70年代には、接収地に入った人が米兵に射殺されたという都市伝説さえありました。

80年代に持ち上がったアメリカ海軍第七艦隊の住居施設の建設に当たっては、逗子市長の辞任や議会のリコールを繰り返してきたので、そのニュースが記憶に残っている人もいると思います。今では神武寺駅のホームから米軍の住居区域の様子を少し垣間見ることが出来るので、気になって調べてみた所、更なる住居建設の計画が進行中だと知って何とも言えない絶望的な気持ちに見舞われました。

290ヘクタールというと広大な面積のように聞こえますが、実際はセントラルパークよりも狭いのです。現在では敷地の一部が住居施設として使われているため、残されているのは210ヘクタールです。セントラルパークが341ヘクタールなので、いかに残された地域が僅かで危ういかが分かります。

私にとっては、逗子の入り組んだ狭い道沿いに建設される巨大なライオンズマンションも、山あいに建設される新興住宅地も、池子の米軍住宅も同じレベルの問題です。自然に囲まれた土地に住みたいという気持ちは理解できますが、どこかで歯止めをかけないと、過剰な土地開発の行く末は、なんの魅力もないベッドタウンなのでしょう。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

2011年9月8日

鷹取山

逗子と横須賀の間にある鷹取山は、かつては三浦氏の領地で鷹狩りが行われていたためにその名が付いたそうです。今では鷹こそいませんが、トンビ、蛇、様々な蝶、蝉、トカゲ、カブトムシ、クワガタ、マムシなどが生息する自然が残っています。地元の人々には良く知られたうっそうと茂る山林を行く2時間程度のハイキングコースがあり、私も子供の頃から何度となく登って親しんで来ました。

母の入居する老人ホームが鷹取山登山口の横手にあるので、面会に行った際に息子と登ってみてはどうかという考えがふと浮かびました。果してニューヨーク育ちで10分も歩くと文句を言う息子に2時間のハイキングは可能だろうかと懐疑的ではありましたが、本人が行く気十分だったので決行することとなりました。

途中、急な坂路あり、小さな澤あり、ちょろちょろ走るトカゲあり、大きな岩の斜面を伝って歩く鎖場ありと、ニューヨークでは体験できないようなちょっとした冒険に息子は大喜びで、途中で弱音を吐くどころか、あまりの楽しさにその後もう一度、鷹取山へ連れて行くハメになりました。

私の鷹取山の記憶は30年以上も前のおぼろげなものなのですが、たしか当時は鎖場などなかったし、頂上付近の風景もずいぶん異なっているように感じました。それでも、自分の子供時代を追体験できました。失った時間というのは、どこか甘美で淋しいものです。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

2011年9月7日

荒崎海岸

今回の日本滞在中に、横須賀市にあるソレイユの丘というとんでもないネーミングの公園に逗子からバスを乗り継いで行きました。JR逗子駅前から山回りの葉山経由長井行きのバスに乗り、終点まで延々と45分程。そしてそこから更にソレイユの丘行きのバスに乗り換えて15分。車がないと、ちょっとしたレジャーにも根性で公共の交通機関を乗り継がなければなりません。

その終点の長井の少し手前辺りに、荒崎海岸があります。三浦半島の西側で、行政区としては横須賀なのですが三浦市との境辺りです。バスが海岸の横を通り過ぎて景観が見えるまですっかり忘れていたのですが、荒崎海岸は子供会の遠足で行った所です。

ごつごつした岩場の海岸で、引き潮の時には遠くまで岩場が露出し、そこに残された小さな蟹やヤドカリを捕まえて遊んだのを覚えています。当時は磯遊びに夢中で気づかなかったけれど、波に寝食された岩が作る海岸線は入り組んでいたり、トンネル状にえぐられた岩があったりと、かなり風光明媚な所です。

この辺りには、最近話題になった三浦断層が走っています。今年3月の東日本大震災の影響で周辺地域の地殻活動が活発化され、三浦断層にも更なるひずみが蓄積されて30年以内に地震を起こす可能性が高まったのだそうです。首都圏に近い三浦断層が滑ったとすれば直下型の地震になるため、要注意地域となるのでしょう。ネットで見ると、荒崎海岸の露出した岩肌にも不整合が沢山見られ、この辺りの地殻変動の凄まじさを物語っています。

息子は自然と戯れるのが好きなタイプなので、来年日本に行った時には是非連れて行きたいと思っています。ただその時には、万が一地震が起こった時に備えて、高台にのぼる避難経路をまず確認しないといけませんね。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

江戸ッ子

世の中には、欠点が沢山ありながらも、好きになってしまう人というのが存在します。そういう人々は概して、自己中心的であり、常識にも欠けている事が多いのですが、ずば抜けて良い人間性を持っています。私の90才になる遠縁のおばちゃんがそういう人です。

彼女は代々続く東京の小石川の裕福な商家に産まれて育ち、太平洋戦争が始まるまでは毎日お芝居やお稽古事に明け暮れ、何の苦労もなく育ったようです。それが日本の軍備拡張とともに住んでいた地域が軍に買い上げられたので、そのお金を持って親戚の住んでいた逗子に引越して来たのだそうです。私とおばちゃんはかなりの遠縁であるにもかかわらず、おばちゃんの気さくな人柄によって親しくさせてもらっています。

おばちゃんには色々と自慢話があり、自分の容姿や健康状態から始まって、持ち物、筆跡、血統、趣味など、どんな事でも自分が一番だと信じています。今は90才にもなるので、かなりボケが入って来ていますが、ボケが入る何十年も前から同じ話を何度もしたり、他人から聞いた話を自分が良いように解釈して内容をねじ曲げて別の人に話していました。

「やまいこうもう」を「やまい肛門」と言ったり、他人の奥さんを「家内」と呼んだり、「あくまでも」を「悪魔までも」と言ったりというような少し笑ってしまう言い違いもよくやってました。私が「おばちゃん、それ違うよ。やまいこうもうだよ。」と指摘しても、聞く耳を持たず「いやだねぇ、この子は。人のあげ足ばっか取って!」などと言ったかと思うと、涼しい顔をして又同じ言い間違いを延々と繰り返していました。

他人の生活にも平気でズカズカと侵入して来るし、言いたい事を言いまくっているので、そういう面を嫌う人がいるのも事実です。でも、おばちゃんはとんでもないくらいに人が良く、困っている人や助けがいる人を見つければ、決して放っておけないタチなのです。未婚で子供もないのですが大の子供好きで、私達姉妹が子供の頃は、毎日のように面倒を見てくれていました。まだまだ元気だった70過ぎの頃には、近所に住む男の子の面倒を無償で見ていたようです。「袖すり合うも多少の縁」とは、おばちゃんが言っていた事ですが、まさにおばちゃんの人生哲学のようです。江戸っ子ってこういう人の事を指すんだろうと思います。

7年間の自宅介護の末に母親をなくしてからは、おばちゃんは年下の弟であるおじちゃんと二人で暮らしています。この二人はあまり仲が良くなく、年がら年中喧嘩しているとよく聞きます。とは言っても、おばちゃんの方が比べ物にならない程強いので、おじちゃんには少々気の毒ではあります。

そんなおばちゃんの家には、昔からの長い付き合いがある人々がしばしば立ち寄ります。何か食べ物を持って来たり、買物のついでに立ち寄ったり… あまり日本語の話せない私の8才の息子までも、おばちゃんの家の側まで来ると、ちょっと寄って行きたくなるようです。いつまでも長生きして欲しいと願っています。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

2011年9月6日

トンビ

日本ではごく当たり前に空を飛んでいるトンビは、アメリカでは見られません。もしかしたら、東京でもあまり見られないのかも知れないけれど、逗子近辺ではとても身近な鳥です。

中学の頃にトンビというあだ名の女の子がいたのですが、国語の授業で俳句を作っている時にクラスの男の子の一人が
「死肉しか食べないトンビああきたね」
という何とも言えない一句を詠み、先生に叱られていました。その記憶があって、どういうわけだか私はトンビが死肉しか食べないものだと信じ込んでいました。ところが今年になり、トンビを英語で何と言うのか息子に聞かれて初めてネットで検索し、トンビが大型のタカ科に属する雑食の猛禽類である事を知りました。

去年の夏に帰省した折には逗子の海岸へ行ったのですが、その時に海岸監視員の方から、
「お昼はここで食べるんですか?」と聞かれ、怪訝に思っていると、
「トンビが食べ物を狙って急降下して来ますんで、気をつけて下さいね。」と注意されました。

私が子供の頃には、海岸で何かを食べてもそれをトンビに狙われるという事は一切なかったし、空にはトンビも見当たらなかったのですが、お弁当を出すと途端に何処からかトンビが数羽飛んで来て、空中を旋回し始めました。弁当の蓋はきちっと閉め、スナックの袋もふさいでいたのですが、せんべいを袋から取り出して口に持って行こうとした瞬間、手からせんべいが無くなっていました。上空から急降下して来たトンビにせんべいを持って行かれてしまったようです。ほんの一瞬の事でした。

今年は、友人が逗子へ遊びに来た際に、壁に止まっていた蝉をトンビが捕獲する様を目撃したそうです。通常トンビは、カラスよりもずっと上空を旋回しているので、そこから私が食べようとしていたせんべいや壁に止まっている蝉を見分けて急降下してくるんだから、もの凄い眼力とスピードだと関心しました。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

トンボ玉


今回の日本滞在中に、鎌倉の小町通りを少し入った所にある「かんざし屋」というお店で、大きなトンボ玉2つとそれを付ける為の金属のかんざし軸を買いました。かんざしの先端にネジが付いていて、トンボ玉を入れ替えできるようになっています。お店の御主人に「このかんざし軸さえあれば、どこで買ったトンボ玉を買って付け替える事ができるよ」と言われ、一気にトンボ玉に興味が湧いてしまいました。


トンボ玉という名前を知ったのは、6~7年前に鎌倉小町通りにある「石ころや」という半貴石を売るお店に入った時でした。そこでは、勾玉やトンボ玉などに加工されたアクセサリーを売っていて、2階にあるスペースでは自分で好きなパーツを買ってオリジナルのアクセサリーを作ることも出来ました。


トンボ玉自体は、紐などを通す事ができる穴の開いたガラス玉なのですが、かなり古い歴史を持ったもののようです。日本ではその美しさから江戸時代に人気が出て、根付けやかんざしに盛んに使われた様ですが、明治に入ってその技法は後世に伝えられる事無く途絶えてしまったという事です。


今、日本で作られているトンボ玉は近年になってから、昔の技術を復元して作られている様です。勿論、江戸時代のアンティークも探せば手に入るようですが、そこまでしなくても可愛らしいトンボ玉は見つかります。ただ、それほどポピュラーな物ではないので、行く所に行かないと買えないというのが悩みの種でもあります。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ