2011年9月27日

子供の頃、私は父が大嫌いでした。夜遅くに酔いつぶれて帰って来る事がよくあったし、酔うと寺内貫太郎一家みたいな家族全員を巻き込んだ上を下への大騒ぎになることがよくあったからです。父の関心事は家庭ではなく仕事だったために、自宅で働いていたにも関わらず、私は父の事をあまり知りませんでした。

そもそも私の両親は、お世辞にも仲の良い夫婦とは言えませんでした。性格も全く異なるし、ただ実家が床屋をしていて年令と家が近いという、便宜上の条件が合った為に結婚したようなもので、恋愛感情やお互いを思いやる気持ちなど最初から全く存在しなかったからだと思います。それでも責任感の強さからか、決して逃げ出す事なく、お互いの役割はきっちりと全うしていました。

子供も成長して次々に家から離れていき、祖母も亡くなり、歳をとるとともに父も少し丸くなり、夫婦だけの時間も増えて、溝も少し浅くなってきたかなと思った頃、母は脳卒中で倒れてしまいました。私は遠方に住む為に、すぐに駆けつけることができなかったのですが、洗濯屋のおばちゃんの話によると、救急病院での父は放心状態だったようです。

おそらく父の中には、自分が先に逝くと信じていたのに母が先に病気で倒れてしまった事への驚き、母を心身ともに虐待した事に関する罪悪感、これからやっとお互いの時間が持てると思っていたのにそれが叶わなかった事への悔しさなどがあったのだろうと思います。

それからの父は、人が変わったように母の看護を献身的に行いました。仕事が忙しい日も合間を見てタクシーを走らせ病院へ行き、そこに車を待たせたまま五分だけでも母に会った後、その車で仕事に戻っていたようです。どうしても病院に行けないような日は、親戚に電話を入れて代わりに面会に行ってもらったりと、必ず毎日誰かが会いに行くように心を配っていました。

母の意識が徐々に戻って来て、少しずつ目が覚めている時間も増え、余り言葉は話せなくても自分で食事もできるようになる間、父は母の側に付き添っていました。母もあまりはっきりとはしない意識の中で、毎日病院に顔を見せる父に信頼を寄せるようになったのだろうと思います。

残念ながら、母が倒れてから一年半程経った頃、今度は父が倒れてしまいました。仕事も遊びも看病も全く手を抜かなかったので、心と体の疲労がピークに達していたのでしょう。あっという間の出来事で、ニューヨークに住む私は臨終にも間に合いませんでした。あんなに憎んでいたのに、父の死を知った母の悲しみはかなり深いものでした。今でも母に会う度に、心の奥で父を弔っているのだというのを感じます。

それでも、私の中には何か清々しい気持ちが残りました。父は自分が好きなように精一杯生きた人だし、最後の一年半は、誰もが驚く程に母に尽くしたのです。夫婦というもの、連れ添うというのは、こういう事なのだと何十年も両親を見てきた末に思いました。

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