2011年9月12日

10周年

10年前の今日、私はミッドタウンで働いていました。出社した時には、既に煙をあげているWTCがオフィスの窓から良く見えました。会社のオフィスは、WTCの両方のタワーにもあったので社内の雰囲気は尋常ではありませんでした。

幸い、私は直接の被害者ではありません。それでも事件の後しばらくはWTCで亡くなった人々の悲惨な最後が考えたくないのに頭から離れなくなってしまいました。申し訳ないのですが、地下鉄でも中東系の人を見かけると、もしかしたら自爆するかもしれないなどと考え、恐怖のあまり次の駅で下りてしまった事も何度かあります。

日本に住む家族や親戚、友人からも安否を気遣う電話やメールをもらい、他の多くの日本人も9/11の被害者に対して同情と共感を持ってくれているものだと自動的に思っていました。ところが、そうでもないのだということが暫くして分かってきました。

9/11はアメリカ帝国支配への報復で、WTCで死んだ人々も直接外国人を支配しようとしたわけではないけれど、アメリカにある会社で働く事によってその片棒を担いでいたと考える人が少なくないようなのです。いままでは、第三世界の国々や中東が大惨事の現場だったけれど、今度はアメリカの番であるとか、虐殺される者の気持ちを知れというようなものもありました。

確かに、それはそれで立派な理論です。アメリカ人は、自国の兵士の死亡者数には敏感だけれど、イラクやアフガニスタン市民の死亡者数には無頓着だというのは事実だと思うので、あえて反論しようとも思いません。

でも、ただ単純に多くの人が不幸にも悲惨な最後を遂げたことに関する同情や弔いの気持ちがあまり感じられない事にかんして、大きなショックを受けました。アメリカ軍の爆弾で死んだイラク人も、自爆テロリストの巻き添えになったアフガニスタン人も、イラクで戦死したアメリカ人も、原爆で死んだ日本人も、空襲で死んだ日本人も、硫黄島で戦死した私の祖父も、全て不幸にも紛争に巻き込まれて失われた命で、それに優劣があるわけではないのに。

人間は、自分と同じ種類の人びとには共感を持つけれど、政治、宗教、国籍、人種、性別、国際関係が異なる状況にいる他人には、同じ人間であるという感情を持ちにくいものなのでしょう。

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