2011年9月15日

手を合わせる

私は一様、洗礼を受けたカトリックなのですが、ユダヤ人と結婚したこともあり、ニューヨークでは教会へは行っていません。そうかと言って、シナゴーグに通っているわけでもないので、礼拝の類にはアメリカではご無沙汰しています。

日本では、お墓参りや神社のお参り、仏壇へのお供えなど、何かと手を合わせる機会があります。子供の頃からの習慣だし、そういうものだと教えられてきたから、例え鶴岡八幡宮のような観光地でも、行ったらお参りしないとバチが当たるような気がします。

今回帰省していつものようにお墓参りをした時に、子供の頃からの素朴な疑問が再び浮かび上がってきました。手を合わせている間に、一体何を心の中に願ったらいいのか、分からないのです。普段から、ああしたいこうしたい、アレが欲しいコレが欲しいという願望は沢山あるものの、実際に神社仏閣でお参りする時には、そういう事を全て忘れてしまうのです。そしていつものように、何を願おうかちょっと迷ったあげく、取って付けたようなお決まりの願い事をしました。家族が健康でありますように。

でも、手を合わせた途端に心の中が空白になってしまうのは、悪い事ではないのかも知れないとふと思いました。普段は日常生活にまみれて、世俗的な事にあれこれ心を惑わしているのだから、せめてお参りする時ぐらいには、何も願わず心を空っぽにしてみたい衝動にかられました。

お墓の前に立って、ただ目を瞑って手を合わせていると、蝉の鳴き声や風の音、人の声、遠くを走る電車の音などが聞こえます。そして、心が落ち着いて来て気持ちがいいのです。あいにく、8歳の息子と一緒だったので、そんな心の洗濯ができたのはほんの一瞬なのですが。

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