ラベル の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2012年3月24日

アメリカ人の顔に書いてある

アメリカ人には、分かりやすい人が多いと思います。こういう人かなと思ったら、やっぱりそういう人だったという事が多く、少々拍子抜けしてしまいます。例えば、初対面でとても良い人そうだけれど、本当に信頼できるのか迷っているとします。もう少し相手を良く知るようになって、やはり最初に感じたように信頼できる人だったと確信するケースが殆どです。怪しそうな人も結構一目見て分かるので、危険そうな人には近寄らないようにするというのも、あまり難しい事ではありません。

稀に、どうもよく分からない人々もいます。いい人なのか、騙そうとしているのか、それとも裏があるのか… なかなか腹の内が読めない人には、当然ながら注意が必用です。とても複雑な人もいるし、隠れたアジェンダを持っている人もいます。 

多くのアメリカ人の顔には、どういう人なのかあたかも書いてあるようなのです。あまり裏表がなく、こちら側が相手の本心を読もうとする努力をしなくても良いというのは、最初のうちはびっくりしましたが、却って気が楽です。英語で open book という表現がありますが、これは文字通り開いた本、秘密がなく全てが簡単に読まれてしまうような人を指します。そこまで単純な人はさすがにあまりいませんが、アメリカ人の人となりを察するのは比較的簡単です。

私自身も日本人ですが、日本人は本当に腹の底が読めない人が多いと思います。殆どの人は、表面上はそつがなく礼儀正しいのですが、本当は何を考えているのか明かさない複雑な人が多いのです。知り合って長々と会話が弾んで意気投合したのかと思ったのに、後日メールを出しても全く返事がなかったりすると、アメリカ人は困惑してしまうのです。おそらく、意気投合したと思っていたのはアメリカ人だけで、日本人はただ合わせていただけなんでしょうが、その辺をアメリカ人に読めと言っても無理です。

アメリカ人のビジネスマンは、日本人とのコミュニケーションの難しさを痛い程良く知っています。数回の話し合いを重ねて、お互いに合意が得られたと思ったら、実は日本側は不満だらけで話が決別し、わざわざ日本まで出かけて行った時間と苦労は一体何だったんだろうと後味の悪い思いだけが残ってしまいます。

もしかしたら、相手の心理を読みあうのが日本流、自分の心理を分かりやすく伝えるのがアメリカ流なのかもしれません。

アメリカ人でも、幼い子どもはまだ相手に自分の言いたい事を伝える事に長けていないので、大人がそれを察しないとかんしゃくを起こす事があります。そういう場合に大人は、子どもに自分の言いたい事は言葉にして現さないと誰も理解できない事を教えます。私の夫が息子に向かって "I am not a psychic. I don't understand if you don't speak what you want." 「お父さんは超能力者じゃないんだから、何が欲しいか言ってくれないとわからないよ。」と言うのを何度も聞いた事があります。

日本人だって、自分の意見を持っていないわけではありません。ただ自己表現をする人よりも他人に合わせる人が好まれがちな日本社会では、自分の意見はずっと人目に触れないようにしてあるだけです。アメリカでは、その大切に閉まってある自分の意見を持ち出さなければなりません。言わなければ、誰にも聞こえません。

いつも黙って聞いている人から、自分の意見が言えるまでになるのには訓練も必用ですが、自分の外側と内側が一致すれば、精神的なストレスも軽減されます。元々、相手を観察して理解するという術に優れている日本人が、自己表現の方法をマスターすれば、コミュニケーションの達人になれると思います。



よかったらクリックおねがいします。 ↓こちらのクリックもおねがいします。
人気ブログランキングへ にほんブログ村 海外生活ブログ ニューヨーク情報へ

2011年11月1日

伴侶

友人が、大きな仕事の契約をする直前になって、契約内容に釈然としない所があったので、弁護士や親しい人々に聞いてみたら、その契約は胡散臭いので止めた方が良いという事になったという話を聞きました。ところが、その契約が怪しいかも知れないと最初に警鐘を鳴らしたのは、御主人だったのだそうです。

私も夫に仕事に関してあれこれ話を聞いてもらう事は、よくあります。夫は同業者ではないので、細かい仕事の事は話しても理解してもらえませんが、契約段階でのあれこれ、問題がこじれたときの対処の仕方など、一人で考え込んでいるよりも、誰かに話をするだけで、自分の気持ちの持ち様が変わって来る事もあります。夫は、私にとっては世の中で一番信頼できる人物だし、夫婦なだけに私と利害関係もほぼ一致しているし、いつも側にいるから話をしやすいし、私の一番醜悪な部分さえもよく承知しています。のろけるわけではありませんが、夫は片付けが下手で手際が悪いけれども、稀に見るモラルの高い人物だと思っているので、夫の意見を参考にする事はよくあります。

結婚する前は、夫婦というのがこんなに奥が深いものだとは、想像も出来ませんでした。結婚した時に「信頼できる人が側にいるというのは、とても良い事。おめでとう。」と言われた事があるのを今回思い出しました。こういう深い信頼関係が夫婦の核となる部分なんでしょうね。



よかったらクリックおねがいします。 ↓こちらのクリックもおねがいします。
人気ブログランキングへ にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ

2011年10月12日

芸術を愛でる感覚

先日書いたように、私は新聞やノンフィクションは読みますが、小説を読む事はごく稀です。あまり「お話」を読む気がしないのです。音楽も最近はそこそこ聞きますが、全く聞かなくても平気です。美術館もMoMAの現代美術よりもMetropolitan Museum of Artダマスカス商人の居間(先日行ったら、イスラム美術のセクションは、残念ながら改装中でした。)を眺めている方が好きです。

面白い事に、私の息子は全く逆のタイプです。お話を読みながら空想の世界をさまようのが好きなようで、放っておけば何時間でも読み続けたりしますが、ノンフィクションは嫌いで読ませようとしてもなかなか先に進みません。音楽も既に自分の趣味を持っているし、MoMAでは、3㎝程の厚さの黒いゴムの床材が丸めて床に置いてある、どう理解したらいいのか分からないような展示を見て「見て、この影すごい綺麗だよ。」と言うのです。息子には、私と見えている物が違うのだというのがその時に解りました。でもMetropolitan Museum of Artは、少々退屈なようです。

MoMAの分館でPS1というのがロング・アイランド・シティーにあります。観光客でそこまでわざわざ足を伸ばす人はあまりいませんが、去年MoMAのメンバーだった時には、家から近いこともあってしばしば訪れました。そこはPS1という名が示すように、以前は小学校 (Primary School) だった古い建物を美術館に改装して使っています。

そこで以前行われていた映像の展示を息子が見入っているのに気がつきました。作家名はもう忘れてしまったのですが、一つの何気ない物から足が生えて別の物に変化して、それが更に又別の物に変化して… という連続が映像になっています。そこに夫が入って来て「僕はこういうのが、子供の頃にずっと頭の中にあったんだよね。ただ、それをどうやって表現するか、全く分からなかったから、芸術家にはならなかったんだけど。」と、大いに共感を示しているのです。

デザインの仕事をしている私よりも、保険屋の夫と8才の息子の方が芸術を愛でる感覚に鋭いとは、何とも皮肉なものです。



よかったらクリックおねがいします。 ↓こちらのクリックもおねがいします。
人気ブログランキングへ にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ

2011年10月4日

塩分

朝食はたいていアメリカ風で、オートミール、コールドシリアル(コーンフレークのような物)、卵とベーコン、若しくは前もって作って冷凍しておいたフレンチトーストと相場が決まっています。今朝は冷凍しておいたご飯もあったので、久しぶりに日本で買って来た塩昆布とシャケのふりかけで朝ご飯を食べました。

日本食はいつ食べても美味しくて大変満足するのですが、今朝は食べた後に舌がピリピリする感覚を憶えました。日本でお弁当やお惣菜を買って食べたときも、この舌のピリピリ感が残りました。辛みではなくて過剰な塩分です。

アメリカでは、塩は使うものの醤油や味噌の味付けが少ない為に、普通に調理しても日本食を食べるよりは自然と塩分が少なめの食生活になるようです。だんだん舌が慣れて来たのか、久々に帰省すると日本の食生活の塩辛さに驚きます。

父がまだ生きていた頃、ふとしたきっかけで塩分の話になりました。
「最近、血圧を下げる為に塩分の少ない食生活にしてるんだ。パパも塩分減らした方がいいんじゃないの?」
「塩分が少ない食事をしていると、疲れないか?」
私は言葉に詰まりました。塩分を採ると疲れにくくなるというのは事実です。でも塩分が血圧を高くしているというのも、父は十分承知していたはずです。疲れない為にずっと塩分を過剰に取り続け、朝から晩まで休みなく働いて、挙げ句の果てには早死にしてしまいました。

降圧剤を飲んでいれば、塩分を過剰に取り続けても平気だと思っていたのでしょうか。もう少し、私がしつこく食生活を改善するように言ったら、父はもっと長生きしたのでしょうか。様々な考えが頭の中を巡ります。生活の質って何なんでしょうね。



よかったらクリックおねがいします。 ↓こちらのクリックもおねがいします。
人気ブログランキングへ にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ

2011年10月2日

人生の最期に

実兄が亡くなってからは、夫には家族や親戚が私と息子以外にはないため、フィラデルフィアの郊外に住んでいる義理の姉が、何かの折には私達を呼んでくれます。きらびやかなユダヤ人マダムタイプなので、最初は敬遠していたのですが、10年以上も前に死別した夫の弟の家族と親交を保つというのはなかなかできる事ではなく、その心遣いには言葉で言い表せない程感謝しています。

その義理の姉のお父さんは、末期の食道がんだと今年の初め頃に診断され、今は自宅でホスピスのケアを受けています。ホスピスというのは、末期がんの患者や他の不治の病気で余命が残り少ないと分かっている場合に、手術や治療を最優先にするよりも、人生を終える準備に重点を置いた施設です。

義理の姉のお父さんは、自宅でそのホスピスケアを受けています。義理の姉のお母さんもまだ元気で、老夫婦は一緒に住んでいるのですが、80才を過ぎた老婦人ひとりでは介護が不可能なので、昼も夜も必ず看護婦を一人、家に駐在させているそうです。朝と夕方に交代があるのですが、その交代の時間に二人の看護婦が寝たきりのお父さんをお風呂に入れたり着替えをさせたりという作業をするそうです。かなり大柄な人なので、お風呂に入れるのも着替えをさせるのも大変だろうと思いますが、看護が良いからか、加齢臭の類も一切なく、いつ見ても綺麗にしています。

今日会った時に義理の姉のお父さんは、リビング・ウィルの用紙を見せてくれました。つまり、自分が危篤になった場合に甦生措置をして欲しいかして欲しくないか、人工呼吸器は取り付けてほしいか欲しくないか、輸血はして欲しいかして欲しくないか、臓器移植は… というような具体的な項目に、ひとつひとつ「はい」「いいえ」を記入して行きます。

八十八才になるので思考のスピードも以前より落ちていて、もう沢山は語らないのですが、三十才前に自殺してしまった長男の事、お兄さんの事、起伏が激しかった結婚生活の事など、遠くを見ながらポツリポツリとつぶやくようにゆっくりと話す様子からは、今までの自分の人生を何度も振り返っているのだというのが分かりました。

私も日本で、何人かの知人をがんで亡くしました。日本とアメリカの大きな違いは、病状と病名の告知です。少し前までは、日本での告知は殆どなかったと思いますが、最近はケースバイケースのようで担当医の判断による所が大きいのかもしれません。それでもたとえ告知がなくても、あと数日しか持たない患者は、終わりが近づいているのがわかるのでしょう。

私の小唄の先生で母の友人でもあった人は、子宮頸がんで亡くなったのですが、母が先生の亡くなる2日程前に面会に行った時に「あたしの病室の入り口の名札の上に赤い丸が付いてないか、ちょっと見て来てくれる?」と言われたそうです。名札の上に赤い丸が付くと、数日のうちにその患者さんが亡くなるというのを先生は承知していたのでしょう。体調が悪化した時にそれが自分の最期かどうか、知りたかったようです。母は返答に困ったと言っていました。

告知によって病状が改善されるわけでもないのですが、少なくとも自分の病名や余命に関する疑問は疑いの余地もない事実となるので、思考の中心は今までの自分の人生を納得して受入れるという作業になるようです。誰の人生にも良い時と悪い時があるものですが、人生の最期にそれを振り返り平和な気持ちで受入れるというのは、それ自体大変な作業ですが、とても重要なプロセスだと思いました。

最期の数ヶ月間をどうやって過ごすか。今まで住み慣れた家で、他の患者に気を遣う事もなく、充分な介護を受けながらゆっくりと人生を閉じる事ができる夫の義理の姉のお父さんは、恵まれた環境にいます。



よかったらクリックおねがいします。 ↓こちらのクリックもおねがいします。
人気ブログランキングへ にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ

2011年9月30日

父の彼女

「忙しいから彼女ができないなんて言う男は、どっかおかしいんだって言われたよ。」
バツイチの友人が男友達から忠告を受けたのだそうです。そういえば、私にも思い当たる事があります。

父は現役のまま急死したので、葬儀の後の財務整理には、かなり慌ただしいものがありました。当面入っている予約などをキャンセルしなければいけないので、父が愛用していた手帳を開いて見ていると、短い日記のようなメモが細かい字で毎日書き込んでありました。大雑把だと思っていた父の意外な側面を見たような気がしました。

倒れた日には横浜崎陽軒でY高の同窓会に参加するはずで、その二日後にはゴルフに行く予定で… 10日の欄に「きょうことライオンキング」とありました。妹の一人が恭子という名なのですが、どうも変だと思ってたずねてみました。
「あんた、パパとライオンキング行くはずだったの?」
「ああ、それはパパの彼女だよ。何かのきっかけで知ったんだけど、ひらがなの『きょうこ』は彼女なんだよ。あと、もう一人女がいてさ、そっちの方は年に二回、お中元とお歳暮をちゃんとよこすから、商売人だと思うけど。」

父は、母が入院してからというもの、仕事をしながら病院にちょくちょく顔を出していて、しかも週末は朝の5時からゴルフに出かけるというハードスケジュールでした。一週間に一日ぐらい、何もしないで体を休める日でももうければ良かったのに、そういう事のできない人だったようです。しかもその上、彼女までいたとは!

腹が立つとか、母がかわいそうとか、そういう感情は不思議と出て来ませんでした。72才でそこまでできたとは、ただただ関心しました。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

2011年9月28日

謎の肉

戦中戦後の食べ物がない時でも、手段はどうであれ、私の曾祖父は必ず何かをどこかから見つけて来たので、一家がお腹を空かせる事はなかったと聞きます。これは、私の祖母が教えてくれたエピソードです。

ある日、曾祖父が私の祖母に、
「これから肉食うからみんなを呼んできな。」
と言って肉を醤油と砂糖の味付けで調理しだしたそうです。調理している時に、泡のようなものがブクブク出てきたのを見て、
「何、この肉?」
と祖母は聞いたそうです。曾祖父はただニヤニヤしているだけで、何も言わなかったのですが、肉を食べるのは久しぶりなので、ちょっと変だとは思ったけれど、みんな喜んで食べたそうです。

食べていると、ヤケに固いというかスジがあるような、噛むのが大変なような… 食べ終わった後で祖母が、
「ねえ、あの肉何だったのよ?」
と聞くと、曾祖父は、
「ニャ〜!」

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

2011年9月27日

子供の頃、私は父が大嫌いでした。夜遅くに酔いつぶれて帰って来る事がよくあったし、酔うと寺内貫太郎一家みたいな家族全員を巻き込んだ上を下への大騒ぎになることがよくあったからです。父の関心事は家庭ではなく仕事だったために、自宅で働いていたにも関わらず、私は父の事をあまり知りませんでした。

そもそも私の両親は、お世辞にも仲の良い夫婦とは言えませんでした。性格も全く異なるし、ただ実家が床屋をしていて年令と家が近いという、便宜上の条件が合った為に結婚したようなもので、恋愛感情やお互いを思いやる気持ちなど最初から全く存在しなかったからだと思います。それでも責任感の強さからか、決して逃げ出す事なく、お互いの役割はきっちりと全うしていました。

子供も成長して次々に家から離れていき、祖母も亡くなり、歳をとるとともに父も少し丸くなり、夫婦だけの時間も増えて、溝も少し浅くなってきたかなと思った頃、母は脳卒中で倒れてしまいました。私は遠方に住む為に、すぐに駆けつけることができなかったのですが、洗濯屋のおばちゃんの話によると、救急病院での父は放心状態だったようです。

おそらく父の中には、自分が先に逝くと信じていたのに母が先に病気で倒れてしまった事への驚き、母を心身ともに虐待した事に関する罪悪感、これからやっとお互いの時間が持てると思っていたのにそれが叶わなかった事への悔しさなどがあったのだろうと思います。

それからの父は、人が変わったように母の看護を献身的に行いました。仕事が忙しい日も合間を見てタクシーを走らせ病院へ行き、そこに車を待たせたまま五分だけでも母に会った後、その車で仕事に戻っていたようです。どうしても病院に行けないような日は、親戚に電話を入れて代わりに面会に行ってもらったりと、必ず毎日誰かが会いに行くように心を配っていました。

母の意識が徐々に戻って来て、少しずつ目が覚めている時間も増え、余り言葉は話せなくても自分で食事もできるようになる間、父は母の側に付き添っていました。母もあまりはっきりとはしない意識の中で、毎日病院に顔を見せる父に信頼を寄せるようになったのだろうと思います。

残念ながら、母が倒れてから一年半程経った頃、今度は父が倒れてしまいました。仕事も遊びも看病も全く手を抜かなかったので、心と体の疲労がピークに達していたのでしょう。あっという間の出来事で、ニューヨークに住む私は臨終にも間に合いませんでした。あんなに憎んでいたのに、父の死を知った母の悲しみはかなり深いものでした。今でも母に会う度に、心の奥で父を弔っているのだというのを感じます。

それでも、私の中には何か清々しい気持ちが残りました。父は自分が好きなように精一杯生きた人だし、最後の一年半は、誰もが驚く程に母に尽くしたのです。夫婦というもの、連れ添うというのは、こういう事なのだと何十年も両親を見てきた末に思いました。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

遺伝

デブ床と呼ばれていた私の曾祖父は、クロダイ釣りの名人だったようで、逗子海岸で泳ぎながら糸を垂れて魚を釣っていたと聞きます。私が子供の頃には、簡単な釣り竿と木のエサ箱が残っていました。あんこうも、自分で釣って来たのかどうかは分からないのですが、手に入ると、家の中庭にあった木にぶる下げて解体していたそうです。悪知恵が働いて意地も悪かったと聞きますが、食べ物が手に入った時には必ず近所に住んでいる親戚も呼んで振舞うような気前のいい所もあったようです。

私の弟もかなりの釣り好きです。帰省すると、竿が何本もあり、様々な種類のおもりやウキや疑似餌などが篭に入っているのを見かけます。結構上手なようで、自分で釣って来た魚はさばいて食べています。クロダイも自宅でさばけないくらい大きいのが釣れた時には寿司屋に引き取ってもらったそうです。

何年か前に帰省したときに、弟がイカを釣って来たらしく、ちょうど家でさばいている所でした。自分の部屋からマイ包丁を持ち出し、ペーパータオルを使って綺麗に皮を剥いて、私に食べさせてくれるのかと思ったら、全て味噌漬けにして冷蔵庫に入れてしまいました。
「何よ!しばらくぶりに帰って来たからお刺身にして御馳走してくれるんだと思って待ってたら、全部味噌漬けにしちゃうの?」
「いや、こうやって味噌漬けにしておいて、イカのとれない時に焼いて食べるのが贅沢なんだよ。」
「今度釣って来たら食べさせてよ!」
「でもイカの刺身もさ、一回凍らせてからの方が美味しいんだよ。」
釣りの腕は遺伝したのかもしれませんが、気前の良さは遺伝していないようです。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

2011年9月25日

煙草

私が帰省するときには、母を老人ホームから家に迎えて一泊させてあげる事にしています。ただし、設備の整っていない狭い所で車いす生活の母の世話をするのは心配だし、かなり重労働でもあるので、私一人ではできません。必ず妹か弟に手伝ってもらう事にしています。

今年は母が泊まりに来た日が丁度お盆の期間でもあったので、お墓参りに一緒に行きました。お寺もお墓も逗子にあるので、歩いて行ける距離なのです。弟が車いすを押してくれたので、車輪が走りにくい歩道でもグングン進んで行きました。

途中でお花を買って、お線香を買って火をつけて、水をバケツに汲んで、迷路のようなお墓の通路も車いすは速いスピードで進んで行きます。お墓に着いてから簡単に敷地を掃除し、今まで上がっていたお花を下げて水を入れ替え、墓石にも水をかけ、新しいお花を上げ、お線香を祠のようになった所に入れると、弟はそこに火をつけた煙草も入れたのです。
「何で煙草お供えするのよ?パパ煙草吸わなかったじゃん?」
「実っちゃんだよ。」
「ああ、そうだったね。」
実っちゃんは、おばあばが芸者をしていた時に産んだ子供です。 赤ん坊がいては仕事にならないので、実っちゃんは産まれてすぐに里子に出されたそうです。おばあばが芸者を止めて、私の曾祖父と暮らすようになってから呼び戻されたそうですが、実の母と子とは言え、今まで殆ど面識もなかった上に、おばあばは家庭など持った事もないために、多感な年令の娘との接し方も分からず、関係はぎくしゃくしていたと聞きました。

私の曾祖父にとっても実っちゃんは他の男の子供だし、おばあばとの生活には都合の悪い存在です。実っちゃんには、年令が少し下の私の父やおば達の子守りをさせ、かなり辛く当たっていたと聞きました。実っちゃんはかなり勉強ができて成績は良かったけれど、いつしか家出を繰り返すようになったそうです。

時が経ち、私の父も成長して競技会などで頭角を現すようになり、いつまでも独身でいるのも良くないと、実っちゃんに縁談を持ちこんだのだそうです。結納を交わし、式を挙げると、次の日に実っちゃんは帰って来てしまったのです。その日から、実っちゃんは男として生活し始めました。私が子供の頃は、友人から「あの人、男?それとも女?」と何度か聞かれた事を覚えています。いつも男装で、声も低いし、男のようだけれど、やはりどこか女のようでもあったのです。

私も子供の頃には時々面倒を見てもらいましたが、特に弟は毎日のように近くの公園に連れて行って遊んでもらっていました。その事を弟は忘れていないのです。実っちゃんが肺がんにかかって入院した時にも、私は既にアメリカで生活をしていたのですが、弟は頻繁にお見舞いに行ったのだと母から聞きました。

「ハイ、じゃあナムナムしてね。」
弟が母に言うと、母は自由の利く左手を顔の前に持って来て、お参りしました。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

2011年9月24日

芸者

私が知るおばあばは、私達の住む五階建て鉄筋コンクリートのビルの裏にある借家で小唄を教えながらひっそりと住んでいました。お弟子さんに稽古を付けている時には、三味線の音や粋な歌声が私の家の三階の台所まで聞こえて来ました。細身で地味な人で、昔芸者をやっていたような華やかさは全然感じられませんでした。

おばあばが住んでいた家は、関東大震災直後に急場しのぎのために廃材を使って建てられた家だそうで、長く使い込まれて赤茶色に光った柱には、釘を抜いた後や蝶番を取った後がありました。その平屋には二世帯が入るようになっており、半分にはおばあばが住み、もう半分には夏になると逗子海岸に行く海水浴客に浮き輪やゴム草履を売る裁縫店の一家が住んでいました。

昔は逗子にも一丁目の裏あたりに花柳界があったそうです。逗子は横須賀港への便が良いために海軍関係の人々が住んでいたり、昔は金持ちの大きなお屋敷も結構あったので、宴席を張るために芸者の需要があったのでしょう。おばあばは金沢文庫辺りの出身だと聞きましたが13才で芸者になり14才で子供を産んだそうです。芸者をしながら子育てはできないので、子供は里子に出したのだそうです。

一方デブ床は、山梨の出身らしいということは聞いた事がありますが、浅草で花魁の顔剃りをする前の事は良く分かりません。浅草には明治の頃は新吉原と呼ばれていた遊郭がありました。花魁の水白粉は顔に産毛が生えているとノリが悪くなるので、顔剃りが必用だったのだそうです。

デブ床は浅草での仕事が私の高祖父に気に入られ、長女の婿にと迎えられ、二人の間に私の祖父を含めた三人の子供ができたそうです。関東大震災で妻と当時3才だった一番下の女の子が倒壊した家の下敷きになって亡くなってからは、男手一つで息子二人を育てていました。女手がなかった為に、デブ床も息子達も家事をする事となり、私の家系の「男が台所に立つ」という習慣はその頃から始まったようです。料理に関しては、また別に書きたいと思っていますが、私の父は豪快な料理をしたし、弟はシンプルだけれど繊細な料理をします。

そのうちにデブ床は、まだ芸者を始めて何年も絶っていないおばあばに惚れ込んでしまい、息子達の反対を押し切って一緒になろうと身請けをしたようです。昔、浅草で裏方として働いていた事もあって、デブ床にとっては芸者と一緒になるというのは、それほど突飛な事ではなかったのでしょう。結局入籍はしなかったのですが、店の裏手にあった家を借りて二人は住み始めました。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

2011年9月23日

高祖父と高祖母

私の先祖には全く地味なところがなく、かなりアクの強い人達が多いようです。高祖父は逗子で床屋をしており、高祖母との間に男三人、女二人の子供をもうけました。ところが高祖母は、五人の子供がいながら従業員と不義の関係になってしまい、葉山の実家に戻されてしまったのだそうです。実家が角田という名字だったのでしょう、角田のおばあさんと呼ばれていたようです。

高祖母は、洗濯屋のおばちゃんの話によると意地悪な人だったそうで、確かに残っている写真の顔を見ると意地悪そうではあります。それでもお裁縫が得意で私の祖母とはウマが合ったらしく、祖母はお裁縫を時々頼んでいたと聞いた事があります。

高祖父は浅草で花魁の顔剃りをしていた曾祖父の事を知り、その腕に惚れ込んだので長女と結婚させたそうです。一つ分からないのは、何故高祖父に息子が三人もいながら、しかも三人とも床屋をしていたというのにわざわざ長女に婿を取ったのかという事です。いくら曾祖父の腕が良く口もうまかったからといって、当時は明治か大正時代で、長男が家督を継ぐというのが当たり前だった事を考えると、息子達からかなりの反発や批判があったはずです。

私の姓も、実は高祖父の姓ではなく曾祖父の姓だと聞いています。「おじいちゃんが名前をちゃんとしなかったから…」と父のすぐ下の妹が嘆いていたのを聞いた事もあります。家の戒名を見た時にも、墓石にも高祖父の名はなく、最初の死者は関東大震災で亡くなった曾祖母と当時3才の女の子です。もしも本当に高祖父が曾祖父を婿養子にしようと考えていたならば、おそらく私の曾祖父は正式な養子縁組をしなかった為に家督を取り損なったのだろうと思います。

逗子のキングストアーの前当たりに、少し前まで床屋がありました。そこの床屋とは親戚だとは何人かの人に聞いた事があります。どういう親戚関係なのかは、誰も説明してくれなかったのですが、多分私の高祖父の息子の一人が出した店だと思います。高祖父の姓とそこの床屋の姓が同じなので、間違いないでしょう。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

2011年9月21日

引き出し

何故こんなロクでもないことを毎日書き始めたのか。それは帰省したことによって、今までは閉まっていた引き出しが開いてしまったからです。私はデザインを生業としていて、他人様の仕事を良く見せることでお金をいただいているので、仕事は自分の情熱を注ぐ個人的なプロジェクトではありません。ところが、私の実際の人生は振り子の針のように自己表現と仕事との間を行ったり来たりしているのです。

もしかしたら、今のような仕事の期間も満期になりつつあるのかもしれません。もしかしたら、ただ単に景気が悪く、クライアントの資金が足りない為にプロジェクトが開始できないどん詰まりに来ているだけなのかもしれません。それとも私も40代中盤に入り、アメリカで頻繁にいわれる mid life crisis というものに遭遇しているのかもしれません。

今日、エッチングを制作している私の友人のウェブサイトを見て、お前もかと思いました。彼女と私の感性は大きく異なるのですが、最近の個展のお題が「ひき出しの奥にある風景」というものだったからです。

この厄介な引き出し、パンドラの箱、can of worms … どうしたらいいのか、持て余しています。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

2011年9月20日

息子とおばあちゃん

母が倒れてから7年になり、父が他界してからも既に5年になります。日本に帰省できるのも母が生きている間だけだろうと思うと、少々無理をしてでも毎年日本へ帰省するようにしています。

今年は東北の大地震あり、福島の原発事故あり、関東で高まった更なる大地震の可能性ありと、はっきり言って3月の時点では帰省にも躊躇しました。でも事態も落ち付きはじめ、私なりに資料も検討し、総合的に考えてみて帰省を取りやめるまでもないと判断しました。

母が元気だったらどんなだろうと考える事もありますが、もう既に起ってしまった事はいくら嘆いても時間が戻るものでもありません。母が生きている間に少しでも成長した息子の姿を見せたい、息子にもおばあちゃんを知って欲しいのです。また、私の夫は両親を早く亡くしているため、私の母が息子にとってはたったひとりの大切な祖母となります。

本来ならば、もっと自由に孫と遊んだりおもちゃを買ってあげたいのでしょうが、それができないのはもどかしい事だろうと思います。息子にとっても、なかなか会うことができないおばあちゃんに甘やかされる経験が持てないのは大きな損失です。それでも息子はおばあちゃんが特別な存在だという事を理解しているのか、それとも私に気をつかっているのか「おばあちゃんに会いたい」と言ってくれます。

また今年は息子に母が元気な頃の話をしてあげました。「おばあちゃんは、勇くんが産まれたばかりの時にニューヨークに来て、お風呂に入れてくれたんだよ。」と話すと、ちょっと間を置いてから「もっとおばあちゃんが好きになって来た。」と言ってくれました。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

デブ床

「デブ床」は私の曾祖父で、私が一歳になるぐらいまで生きていました。その名の通り、デブの床屋というあだ名です。かなりアクの強い人だったようで、私が小学生の頃は曾祖父を知る人もまだ多く、友人宅に遊びに行ったりした際にデブ床の孫と言われるのがたまらなく嫌でした。これを言われる度に、卑しい下層階級の烙印を押されたような気がしたのです。実際には私はひ孫なのですが。

曾祖父は、最後の8年間は自宅で寝たきりでした。赤ん坊の私が曾祖父の出っ張ったお腹の上に這い上がってしまったので慌てて大人に取り除かれたのが、曾祖父に関する唯一の私の記憶です。

今年の夏に帰省した時に、いつものように古いアルバムを開いて見ていると、今までは気づかなかった曾祖父の写真を見つけました。宴席で撮られたらしい小さい白黒の写真で、顔を覆い着物をはだけて露出させたお腹には、マジックで顔が書いてあるのです。曾祖父は腹踊りが得意だったと聞いた事がありますが、写真は初めて見ました。

次に帰省するときには、小型のスキャナーをアメリカから持って行くか日本で購入して、実家にある写真をスキャンしたいと思っています。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

2011年9月18日

おんくろだなううんじゃく

望郷のニューヨーカー 祖母は若い時には苦労したようですが、50才ぐらいから隠居生活を満喫しはじめる事ができました。家の商売は私の両親が切り盛りしていたし、祖父が戦死したために恩給が出ていたので、元気な頃は、国内外問わずあちこち旅行へ行ったりお参りに行ったりしていました。その中でも、とりわけ祖母が情熱を注いでいたのがお遍路さんです。

白木の杖を持ち、真っ白な浴衣を羽織って四国八十八箇所などの霊場を巡っては、それぞれの寺院の判子をその浴衣に押してもらうのだそうです。丁度、今で言うスタンプラリーです。「六根清浄、六根清浄(ろっこんしょうじょう)」と唱えながら巡るのだと教えてくれました。

その巡礼先で買って来たらしいお札のひとつに、祖母曰く「便所の神様」というのがありました。とても怖い憤怒の形相をして炎を背負ったインドの神様みたいなのが、A4サイズぐらいの紙に印刷してあるのです。祖母は、これを便器の真っ正面に貼付けました。

座ると嫌でも恐ろしい形相が目に入り、特に夜中は怖いので、お願いだから取り外して欲しいと頼んでも、あれはずっと自分で用が足せるように守ってくれる神様なんだから何も怖い事はない、と言って外してくれませんでした。何年間もずっとトイレのドアに貼ってあったので、書いてあった「おんくろだなううんじゃく」という呪文も烏枢沙魔明王(うすさまみょうおう)という名も脳裏に焼き付いて離れなくなってしまいました。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

2011年9月17日

洗濯屋のおじちゃん

東京で生まれ育ったからか、親戚の洗濯屋のおじちゃんは、巣鴨のお地蔵さんの熱狂的な信者です。元気な頃は、わざわざ逗子から巣鴨までお地蔵さんのお札をまとめ買いに行っていました。お札と言っても、2㎝ x1㎝位の和紙にお地蔵さんの姿が黒いインクで刷られたものです。たしか、何枚かのお札が「御影」と書いてある紙に包んであったと思います。
「おじちゃんなんかね、もう頭が痛いかなっていうと、すぐにお地蔵さんを飲んじゃうんだよ。そうするとね、ピタッと止まるよ。刺なんかもね、ほら刺抜き地蔵って言うでしょ?これ貼っとくと、治っちゃうんだよ。」
子供心にもそんな事はないだろうと怪訝に思っていましたが、もしかしたら何か仕掛けがあるのかも知れないとも思い、
「何か塗ってあるの?」と私が聞くと、
「そんなもん塗ってないよ。ありがたいんだよ、これは。」という、さらに良く分からない答えが返って来ました。
おじちゃんは以前に書いたおばちゃんの弟で、もう80才を過ぎています。若い頃から山登りやスキーに親しんでおり、私達が子供の頃も近所の鷹取山や二子山、お猿畑など色々な所へハイキングに連れて行ってくれました。その想い出があるからこそ、私も息子を鷹取山に連れて行こうと思い立ったのです。

10年以上前に病気で片方の肺を摘出してからは体力もかなり落ちてしまい、遊びに行くといつも居間で横になってテレビを見ています。それでも毎日ゆっくりと、2時間程の散歩は欠かしていないのだと聞いて関心しました。暑い夏でも途中で何度か休みながら、日陰を選んで歩くのだそうです。

今年の8月の滞在中に、散歩の途中で私の滞在するアパートへ立ち寄り、お小遣いをくれました。おじちゃんに、もうお小遣いなんてもらう歳じゃないと言っても、「そんじゃあ、おもちゃでも子供に買ってやんなよ。」と言います。私は既にどこから見ても立派な中年なのに、まだ子供だと思っているのでしょうか。いただいたお小遣いは、本当に子供のおもちゃ代に消えました。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

2011年9月16日

銭洗弁天

最近まで実家は商売をしていたので、巳の日になると祖母は必ず早く起きて銭洗弁天へお釣り銭を洗いに行っていました。その甲斐あってか実家の床屋はとても繁盛し、70年代には従業員が8人ぐらいいました。

私も祖母に連れられて、1〜2回は行ったような記憶があります。とても活気があって楽しかったのを憶えていたので、10代の頃にふらりと行ってみたのですが、誰もいないで閑散としていました。祖母にそれを話すと、
「アンタ、銭洗弁天は巳の日に行かないと何にもならないのよ。」
そうか、ただ行くだけではご利益はないんだ、行く日が重要なんだ、と初めて知りました。

それから私の人生にも紆余曲折あり、銭洗弁天に再び訪れる事もなかったのですが、今年の夏にふと思い立ちました。ここ数年景気も悪く経済状況も厳しいので、ここはひとつ銭洗弁天に行ってご利益に預かったらどうだろう。

早速巳の日を調べ、逗子に泊まりに来る予定の友人を誘いました。
「銭洗弁天行こうよ。」
「えっ?銭洗弁天?良いかも。この辺で少し、金運良くなってもらわないとね。」
「私、円もドルも洗う。」
「私はユーロもあるから洗おうかな。中国のもあったかも。この際、全部持ってって洗っちゃおう。」

金に目がくらんだ大人とは裏腹に、あまり気乗りのしない息子を引きずって、鎌倉駅から住宅地の中を延々と30分ぐらい歩いてようやくたどり着きました。銭洗弁天自体は、木々が茂る小高い丘の上にあるし、お金を洗うのは洞窟の中なので、あまり暑さは感じませんでした。巳の日であるにも関わらず、それほど混んでいなかったのは、早朝ではなかったからかも知れません。

竹のザルにお金を入れて、それに柄杓で汲んだ水をかけるのは、それ自体楽しい行為です。それまでダラッとしていた息子もここでは溌剌とドルを洗っていました。

昨日一緒に行った友人からメールが届き、その時に撮った写真とともに金運がじわじわと上昇してきているような気がするとの知らせがありました。私は洗い方が悪かったのか、今の所金運に変化はありません。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

ペット

今年の夏、息子は母の入居する老人ホームで働いている人から立派なオスのカブトムシをもらって大喜びしました。息子にとっては初めてのペットで、日本にいる間は昆虫ゼリーをあげたり、手の上に乗せたりして楽しませてもらいました。

それを群馬に住む妹に電話で話した所、「ウチでもペット飼ってるよ。」と答えがかえって来ました。

「何?」
「芋虫。」
「捕まえたの?」
「うん。ベランダの植物に結構大きいのがくっついてたから、それを捕ってビンに入れて育ててるんだけど、よく食べるし正露丸みたいなウンチをコロコロするんだよ。でも最近動かないんだよね。色も赤紫色になってるし、死んじゃったのかな。」
「写真送ってよ。何が出て来るのかな?」
「わかんない。でも、蛾々様が出て来たらヤダなぁ。」

そして、「サナギちゃん」というタイトルで8月の上旬に上の写メを送って来ました。その後どうなったのか、何度か電話で話した時に必ず聞いていたのですが、何の変化もなかったようです。

9月に入ってニューヨークに戻り、夏の昆虫の事などすっかり忘れていたら、妹からメールが届きました。「サザナミスズメという恐ろしい蛾になりました。」と書いてありました。手塩にかけて育てた芋虫が蛾だったのか…と笑ってしまいましたが、芋虫の状態で死んでなくてなによりでした。でも、サザナミスズメの幼虫ってネットで見たら緑色なんですけど。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ

2011年9月7日

江戸ッ子

世の中には、欠点が沢山ありながらも、好きになってしまう人というのが存在します。そういう人々は概して、自己中心的であり、常識にも欠けている事が多いのですが、ずば抜けて良い人間性を持っています。私の90才になる遠縁のおばちゃんがそういう人です。

彼女は代々続く東京の小石川の裕福な商家に産まれて育ち、太平洋戦争が始まるまでは毎日お芝居やお稽古事に明け暮れ、何の苦労もなく育ったようです。それが日本の軍備拡張とともに住んでいた地域が軍に買い上げられたので、そのお金を持って親戚の住んでいた逗子に引越して来たのだそうです。私とおばちゃんはかなりの遠縁であるにもかかわらず、おばちゃんの気さくな人柄によって親しくさせてもらっています。

おばちゃんには色々と自慢話があり、自分の容姿や健康状態から始まって、持ち物、筆跡、血統、趣味など、どんな事でも自分が一番だと信じています。今は90才にもなるので、かなりボケが入って来ていますが、ボケが入る何十年も前から同じ話を何度もしたり、他人から聞いた話を自分が良いように解釈して内容をねじ曲げて別の人に話していました。

「やまいこうもう」を「やまい肛門」と言ったり、他人の奥さんを「家内」と呼んだり、「あくまでも」を「悪魔までも」と言ったりというような少し笑ってしまう言い違いもよくやってました。私が「おばちゃん、それ違うよ。やまいこうもうだよ。」と指摘しても、聞く耳を持たず「いやだねぇ、この子は。人のあげ足ばっか取って!」などと言ったかと思うと、涼しい顔をして又同じ言い間違いを延々と繰り返していました。

他人の生活にも平気でズカズカと侵入して来るし、言いたい事を言いまくっているので、そういう面を嫌う人がいるのも事実です。でも、おばちゃんはとんでもないくらいに人が良く、困っている人や助けがいる人を見つければ、決して放っておけないタチなのです。未婚で子供もないのですが大の子供好きで、私達姉妹が子供の頃は、毎日のように面倒を見てくれていました。まだまだ元気だった70過ぎの頃には、近所に住む男の子の面倒を無償で見ていたようです。「袖すり合うも多少の縁」とは、おばちゃんが言っていた事ですが、まさにおばちゃんの人生哲学のようです。江戸っ子ってこういう人の事を指すんだろうと思います。

7年間の自宅介護の末に母親をなくしてからは、おばちゃんは年下の弟であるおじちゃんと二人で暮らしています。この二人はあまり仲が良くなく、年がら年中喧嘩しているとよく聞きます。とは言っても、おばちゃんの方が比べ物にならない程強いので、おじちゃんには少々気の毒ではあります。

そんなおばちゃんの家には、昔からの長い付き合いがある人々がしばしば立ち寄ります。何か食べ物を持って来たり、買物のついでに立ち寄ったり… あまり日本語の話せない私の8才の息子までも、おばちゃんの家の側まで来ると、ちょっと寄って行きたくなるようです。いつまでも長生きして欲しいと願っています。

↓よかったらクリックおねがいします。
人気ブログランキングへ