2011年10月2日

人生の最期に

実兄が亡くなってからは、夫には家族や親戚が私と息子以外にはないため、フィラデルフィアの郊外に住んでいる義理の姉が、何かの折には私達を呼んでくれます。きらびやかなユダヤ人マダムタイプなので、最初は敬遠していたのですが、10年以上も前に死別した夫の弟の家族と親交を保つというのはなかなかできる事ではなく、その心遣いには言葉で言い表せない程感謝しています。

その義理の姉のお父さんは、末期の食道がんだと今年の初め頃に診断され、今は自宅でホスピスのケアを受けています。ホスピスというのは、末期がんの患者や他の不治の病気で余命が残り少ないと分かっている場合に、手術や治療を最優先にするよりも、人生を終える準備に重点を置いた施設です。

義理の姉のお父さんは、自宅でそのホスピスケアを受けています。義理の姉のお母さんもまだ元気で、老夫婦は一緒に住んでいるのですが、80才を過ぎた老婦人ひとりでは介護が不可能なので、昼も夜も必ず看護婦を一人、家に駐在させているそうです。朝と夕方に交代があるのですが、その交代の時間に二人の看護婦が寝たきりのお父さんをお風呂に入れたり着替えをさせたりという作業をするそうです。かなり大柄な人なので、お風呂に入れるのも着替えをさせるのも大変だろうと思いますが、看護が良いからか、加齢臭の類も一切なく、いつ見ても綺麗にしています。

今日会った時に義理の姉のお父さんは、リビング・ウィルの用紙を見せてくれました。つまり、自分が危篤になった場合に甦生措置をして欲しいかして欲しくないか、人工呼吸器は取り付けてほしいか欲しくないか、輸血はして欲しいかして欲しくないか、臓器移植は… というような具体的な項目に、ひとつひとつ「はい」「いいえ」を記入して行きます。

八十八才になるので思考のスピードも以前より落ちていて、もう沢山は語らないのですが、三十才前に自殺してしまった長男の事、お兄さんの事、起伏が激しかった結婚生活の事など、遠くを見ながらポツリポツリとつぶやくようにゆっくりと話す様子からは、今までの自分の人生を何度も振り返っているのだというのが分かりました。

私も日本で、何人かの知人をがんで亡くしました。日本とアメリカの大きな違いは、病状と病名の告知です。少し前までは、日本での告知は殆どなかったと思いますが、最近はケースバイケースのようで担当医の判断による所が大きいのかもしれません。それでもたとえ告知がなくても、あと数日しか持たない患者は、終わりが近づいているのがわかるのでしょう。

私の小唄の先生で母の友人でもあった人は、子宮頸がんで亡くなったのですが、母が先生の亡くなる2日程前に面会に行った時に「あたしの病室の入り口の名札の上に赤い丸が付いてないか、ちょっと見て来てくれる?」と言われたそうです。名札の上に赤い丸が付くと、数日のうちにその患者さんが亡くなるというのを先生は承知していたのでしょう。体調が悪化した時にそれが自分の最期かどうか、知りたかったようです。母は返答に困ったと言っていました。

告知によって病状が改善されるわけでもないのですが、少なくとも自分の病名や余命に関する疑問は疑いの余地もない事実となるので、思考の中心は今までの自分の人生を納得して受入れるという作業になるようです。誰の人生にも良い時と悪い時があるものですが、人生の最期にそれを振り返り平和な気持ちで受入れるというのは、それ自体大変な作業ですが、とても重要なプロセスだと思いました。

最期の数ヶ月間をどうやって過ごすか。今まで住み慣れた家で、他の患者に気を遣う事もなく、充分な介護を受けながらゆっくりと人生を閉じる事ができる夫の義理の姉のお父さんは、恵まれた環境にいます。



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