私は今まで、座禅をした事もないし、禅宗も知らない全くの初心者なので、一から指導してもら為に、40分の座禅会の前に行われる説明から顔を出しました。禅堂の正面には木彫りのお釈迦様、その反対側には観音様が安置してあり、普通にお寺にあるような木魚や巨大なリンはあるものの、あとは座布団と饅頭のような形をした座禅クッションのみ。しかも曹洞宗や仏教全般の教義の説明は一切なく、最初から座禅の座り方、禅堂に入るときの礼儀の説明です。単刀直入で実務的なのは、非アジア人に指導する事に焦点を絞ったからなのでしょうか、ニューヨークという土地柄に合わせたのでしょうか、それともこれが禅宗というものなのでしょうか。
座る形が自然に様になっていてよろしいと褒められましたが、座る文化で育っている日本人が座れば、私のような初心者でさえアメリカ人よりも形になるのは当たり前です。40分間でも座ること自体は、全然辛くありませんでした。
目は完全に閉じずにうっすらと開けて瞑想するのは、甘美な妄想にふけろうとする心を、目開けている事によって視覚的に制御するためのようです。それでも、様々な日常の事柄は瞑想をしようとする心に浮かんで来るもの。今日は特に雨の音が聞こえて来たので、目を瞑ってそれに聞き入っていたいという欲望が出て来るのですが、目を開けていると白い壁が見えて、現実の世界に引き戻されます。集中しているわけでもなく、集中していないわけでもなく、ただそこにいる自分を見つめるというのは、本当に精神の修行だと思いました。
子供を連れて行く前に、夫を行かせてみます。
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